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 林蔵、奥の道未知!をいく

 江戸時代の探検家、間宮林蔵を題材とした小説です。

その一

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その一

最終章 晩年

 5月中旬、夏になって林蔵は江戸にもどった。江戸の日本橋の近くまで行くと、懐かしい音が聞こえた。花火である。
 ドドーン、ドドーン、ドコーン!
 30年前にエトロフでも似たような大きな音をきいた。あれはロシア船だったな。。。。

 30年か、長いようでたってしまうと短い。そんなことを思いながらまだ明るい夜空に輝く花火をみながら、大久保忠真の下屋敷へ急いだ。
 大久保の屋敷からも花火が見え、そこで冷えた桃と西瓜をごちそうになり、林蔵は隠密の旅の報告をした。
日本海には異国船は出没していなかったが、浜田藩領で、抜け荷をやっている疑惑ありということ、これらは、大坂奉行所の矢部から、大久保にも飛脚で伝わっていた。

 また薩摩に関しては、やはり清国の商品の輸入が琉球を通しておこなわれているようであり、その件は他の隠密から入手したという。
 林蔵は、薩摩の抜け荷は絶対に止められないだろうと、内心あきらめの心境であった。

 エゾや薩摩は日本のはじに位置する。
 北のエゾなら、日本人は寒くて住めないが、南の琉球なら、住めるだろう。仮に薩摩を攻撃しても琉球に亡命でもされたらもうそれ以上深追いできる力は、今の幕府にはない。
 ただ、幕府も自らの威信を傷つけるわけにはいかないから、薩摩にも警告をするようだが、しょせん蛙の面に小便かもしれない、そんな気がした。
 だが、それ以外の藩には厳しくするだろうから、浜田藩へはすでに調査が入っている。
 また、今回、最初でおそらく最後の長い調査で廻った日本海側のどの藩も曇りの日が多く、やはり米作の収穫が天災で悪くなると、ひとく貧乏になるということも感じた。

 俺は米作が嫌で武士になったわけではないが、米がとれないとうことは、この日本では死活問題である。米の収穫のみに頼りすぎだが、以前、米の代わりに別の作物を作りすぎることは罪です、と上申書を提出してしまったし、今更幕府に反対のことを言うこともできないことがもどかしかった。
 浜田藩の一部の者たちの私欲のために抜け荷をしたならともかく、藩全体の飢えのためなら知らないふりをしてもよかったかも、と思いながらも、そこは幕臣としての義務から、全て話してしまう。それに抜け荷のやりすぎはやはり、相手国の日本への侵略を許す口実となるかもしれない。林蔵はこう考えて納得しようとした。

 同年11月、川路聖謨という幕臣が、林蔵の直属の上司、勘定吟味役として昇進された。海防関連も担当し、優秀な人物として、老中の大久保忠真から推薦されての人事であった。
 
 川路は、伊豆韮山の代官で蘭学者の江川英龍や、三河国田原藩家老でありながらも、すでに優秀な画家でもあった渡辺崋山、更に林蔵も親しくしていた水戸藩の学者藤田東湖らとも親しかった。
 渡辺崋山は、この頃、蘭学も学び藩内での米作の技術改良を行なったり、それこそ欧米人が使用していた鯨油を稲の害虫駆除に使ったり、ジャガ芋やソバを植えたり、あらかじめ食料備蓄庫を用意し、天保の大飢饉の際、一人も藩内で餓死者を出さなかったこともあり、唯一幕府から表彰をうけていた。

 当初、シーボルト事件の噂もあり、鳴滝塾でシーボルトの優秀な弟子だった蘭学医の高野長英と親しかったこともあり、最初は間宮林蔵をなかり警戒しているようであったが、お互いにうちとけ、林蔵もこの10年以上年下の崋山を友と思うようになった。
 崋山は西洋風の絵からも、向こうの画法を積極的に入れていたが、林蔵はそんな崋山を感心していた。林蔵は、ただの西洋かぶれは嫌いだが、日本の将来を心配して、日本のためになるならと西洋のモノを取り入れる姿勢は大いに賛成であった。

 俺が始めて樺太に行く前に江戸で会った伊能忠敬様も、なんでもオランダがいいとは思わないが、日本人に役立つことなら積極的に取り入れていると笑顔で語ったことを思い出し、あの頃は俺がまだ若かったな、とまた、思った。
 林蔵は、幕府も少しずつだが変わっていく。いい具合に変われば、と願う気持ちで、彼ら、20年近く年下の若者と交わり、自分の知っている測量や、蝦夷地、樺太、択捉島のこと、海防についてなど厚く語った。
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プロフィール

作者:福田純也
福田純也
性別:男性
男性

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