その後、林蔵は、アイヌ人と共にラッカに戻り待機していた松田伝十郎に報告すると、松田はやはり浅瀬で海藻が邪魔であったろうと言った。
「できるだけ北に進んでみましたが、浅瀬でしたし、もっと沖にでるにも今度は波がかなり荒れていて、これ以上は無理と思いましたから、やむなく引き返しました。ただ、北方の方ですが、また海が開けているようでしたから、やはり島ですね。霧に遮られてあまり見えなかったのですが、西の方角に陸地があるなら、あの辺りは一番狭い海峡ということでしょうか。ならば、樺太はやはり島と言うべきでしょう」林蔵は答えた。
「もっともこの辺りは樺太でも北部だし、冬には海峡といっても、あれだけ狭いなら凍りつくだろうしな。冬になって氷伝いで人やそりが渡れるのなら、そういう意味では完全な島とはいえないだろう」と松田も答えた。
2人は、調査が無事に終えたことを確認し喜び、アイヌ人が捕まえた鮭を皆で焼いて食い、酒を飲んで祝った。勝利の美酒、その時の林蔵は、最初に東海岸に行かされたことを逆に喜んでいた。俺は樺太と言う島を横断してまで、山を登り、川を下った。
自分も松田様に負けてはいない。樺太で一番狭い箇所とはいえ横断もした。それに、海峡が狭く冬なら凍る可能性もあるが、島であるということもわかった。そう思うと、気持ちよく酔いしれて眠った。
それからそのあたりの測量を済ますと、再び南に戻り、ノテトの村落に着いた。ノテトは東韃靼へ渡海するニヴフ人たちの小さな港でもあり、コーニというニヴフ人が、この辺りの酋長になっていた。彼ら現地人は舟で大陸に夏の間だけ、渡海して韃靼の方に行き、清国人と交易をしているようであった。
コーニは、清国との交易で得たきびやかな服を着ていたが、松田伝十郎とはすっかり打ち解けて仲良くなっていた。松田伝十郎は、どこへ行ってもすぐに現地人と打ち解けていて、彼が行動すると、アイヌ人はもちろんだが、アイヌ語とも違う現地人でもすぐに協力的な感じがした。
林蔵自身も決してアイヌ人とうまくいかない事はないが、それでも松田にはまだまだかなわないと思った。
探検にはやはり、現地人の協力が不可欠である。未開地と言うが、それは西洋人や日本人にとっての探検でも、現地人にとっては日常である。
そこへ突然、全く違う異国人が現れたら、言葉も通じないし風貌や習慣が違えば怖がられたり、警戒されたりする中、すぐに地元の現地人となじめることができるというのは、身体が丈夫なことと共に大切であった。
林蔵にしても、先祖代々の武士ではなく、松田にしてももとは田舎のしかも子供の頃は土をいじっている百姓の身分であったことも大きいかもしれない、と感じたりした。
6月26日(今の暦で8月上旬)ノテトを離れ、南へ戻る。帰路はずっと気持が楽であった。食料は十分あるし、ノテトでもらった果物も熟れていてうまかった。
測量のやりにくかった箇所を再検査したりしながら、順調に船は南下した。樺太最南端の白主に着くと、その2日後には、宗谷海峡も渡って、蝦夷地の宗谷に上陸することができた。(第二章終り)