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 林蔵、奥の道未知!をいく

 江戸時代の探検家、間宮林蔵を題材とした小説です。

その二

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その二

天保7年(1836年)、この年も凶作となり、各地で米価は高騰し、全国的にひどい飢饉となった。このままでは日本はどうなるのか、と林蔵も心配しだしたところ、各地で一揆がおき、奥州では、餓死者が10万人もでた。
 また、昨年林蔵が密告した浜田藩の抜け荷も大坂奉行の矢部によって調べられた。何でも噂によると矢部の配下で、岡村という小柄な隠密が現地に潜入して矢部と連絡を取り合い活躍したということであった。
 浜田藩も以前船が嵐で遭難したことや、米の凶作等で財政に苦しんでいたことで、回船問屋会津屋と組んで、南の海を船でまわって貿易した。日本側は、日本刀や米をだし、相手側から、大量な海産物や椰子の実を含む珍しい産物を運びこみ、こっそりと西廻り航路で運ばれ、莫大な利益を得たという。

 吟味の結果、首謀者は死罪となったというが、そもそも、抜け荷を浜田藩が続けたのはなぜか。結局、抜け荷で得た品を高価な額で買い取る者が国内にたくさんいるからである。
 林蔵は、こんな飢饉の時にも、江戸や上方等の都市には大金持ちがいて、そいつらを何とかしない限り、抜け荷もなくならない、そして本当に飢えている多くの貧民も助からないと思いながら、自分の限界を悟った。
 
  いや正確に言うと、とっくにわかっていることだ。自分は幕命で各地を廻ったただの狗だったが、そんな狗も年を取り、ただ経験だけは増え、少しずつ意見をきこうとしてくれる人たちがいた。俺はできる限りの思いを伝える。これも俺の天命かもしれない。
 この頃もずっと水戸藩の徳川斉昭を始め、海防を中心に話をした。来年はどうなるか。わからないが、生きている証を残こそうとするかの如く、林蔵は熱く語り、夜を徹することも増えていった。

 天保8年になる。もう57歳。林蔵も、あとそろそろ、隠居かなと思った。思えば以前の勘定奉行の村垣はすでに亡くなり、老中の大久保忠真も年をとり、昨年の10月から病気にかかっていたが、春には病状が悪化し、すでに老中職も天保の改革で有名な水野忠邦が代行していた。
  3月(今の4月下旬)に入ってついに大久保も亡くなり、林蔵自身、自分ももうおわりかなと思うように、なった。
 この少し直前に大坂で大塩平八郎の乱が起き、この乱自体は半日で鎮圧されたが、大坂の街の4割が焼け、しかも大塩が幕府の与力であったかもあり、離れた江戸でもすぐに伝わり、かつてないほどの大きな話題になった。救民を旗印に悪徳と思われていた商人の倉を攻撃したことで、庶民は喝采しているようであった。
 
 そして、各地で大塩門弟と称する者による乱が起き、残念なことは幕府の権威が下がっているように感じていた。ところで老中大久保が死に、もう林蔵自身の時代もおわり、幕政自体、そろそろおわるのではと、漠然と思ったりもした。
 俺が死んだら、また誰かが隠密をやるか、いやすでに若い隠密は日本中にいる。されど飢えた民を抱える藩や浪人たちをどんなに罰しても、次々とでてきそうであった。しまいには国へやってきた異国船にだまされ、どこかの藩も加担して徳川幕府をつぶす、そうなら国は滅ぶのでないか、という不安もある。

 海防というが、外国の船だけでなく民のことを考えねばと、大久保様はかなりおっしゃっていたが、水野様は果たしてどうなるか、林蔵は全く面識もなくわからなかった。

 梅雨に入り、外の紫陽花を見てぼんやりと酒をのんでいたら、急につかれからか、のみすぎてそのまま床に入らず眠ったせいか、身体を冷やし急にのどが痛くなった。
 翌日はひどい咳と痰がでて、発熱すると身体中がひどく痛くなった。
 どうやら風邪をひいたか、と思って休んでいたが、3日経っても一向によくならないので、家にあった漢方薬をのんだら、熱は下がったが、まだ身体の特に両足が重く、今後は身体に赤い湿疹が見られるようになった。おかしい、風邪は何度も引いているがこんなことになるとは、どうしたのだ、林蔵は不安な気持ちになった。

 そんな時でも伊能忠敬の親戚の水守章作が林蔵をたずねてきた。亡くなった忠敬の地図や資料の保管はこの頃、水守が引きついでいて、林蔵の樺太の地図もあったとのことで報告に来たとことであった。水守は初めてみる病身の林蔵をみて驚くと、知り合いの名医をおつれしましょうといってくれた。
 「食欲の方はおありですか」心配そうに水守は尋ねた。
 「幸い、胃腸の方は大丈夫ですが、料理をするにも、米も味噌汁も煮炊きしないといけないのですが、それが実は大変で。足が重く、厠に行くくらいなら大丈夫ですが、外出もとてもきつくできないのです。それで、鍼医師でも、と思ったのですが、どうも湿疹もあるから鍼でも効かないような気もしまして、、、」と林蔵がつらそうに答えると、水守は待っていました!と言わんばかりに言った。

 「ならば、ここに知り合いの女がおります由、今度つれて参りましょう」
 「え、どんな女性ですか」と林蔵は思わず尋ねた。
 「ずっと以前、まだ伊能忠敬様がご健在の頃、屋敷で働いていた女中で名はおりきと、いいます。もうあれから20年ですね。四十路にはまだなっていませんが一人者なのです」
 「それでは以前どこかに嫁いでいたのでしょうか」林蔵は再び尋ねた。
 「はい、働き者で、しかも伊能家にいたこともあり、漢字も読み書きもでき、忠敬先生がお亡くなりになった後、一度、嫁入りをしたのですが、気の毒なことに、最近夫に先立たれましてね。
 今は江戸の郊外にある実家で一人、親戚の農家で、甘藷や小松菜の栽培を手伝っているようです。何とかしてやりたいと思っていたら、何と申しますか、林蔵様のところでと、以前から思っていましてね」
 「それで私の所を訪ねられたのですか」、思わず林蔵は苦笑した。

 「はい、ずっと以前、林蔵様ももう隠居したいと人づてにききましたが、それでもまだお身体は元気そうでしたし、いつも諸国を廻られたし、迷っていたのです。ただ病身ということならやはりいかがでしょう」
 「おりき、思い出しました。あの頃はまだ17か18くらいでしたね。お嫁にいって夫との間に子はできなかったのでしょうか」
 「はい、子はできなかったのです。おりきは両親も亡くなり、今は一人、気の毒な女です。林蔵様がよろしければ」と水守は言った。
 「わかりました」と林蔵は言ったが、少し小声になって続けた。
 「ですが水守殿、私ももう50をだいぶすぎました。それにこの病気、もしかしたら、湿毒でないかと思います。お恥ずかしい話、江戸でも吉原や品川の店に足を入れましたけど、諸国でも、酒と女と煙草は断ったことがありません。
 おりきが部屋を掃除してくれたり、飯の煮炊きをしてくれるのはありがたいですが、その妻というのは、、、」といって上を向いて黙った。

 「湿毒?、あの梅毒のことですね。江戸にいても、多くの男がかかるみたいですな。熱い湯に好んで入る江戸っ子の多くが、実は、梅毒のせいで熱い湯に鈍感になったから平気で入れるようになった、なんて言っている蘭方医もいますしね。"かさっかき、おらが手本と異見する"ともいいますし。珍しいことではありませんよ。とにかく、医師に診てもらい、いい薬を処方してもらうことです。
 私は病気のことはよくわかりませんが。あの病気であったとしても、最後や体力でしょう。今まで日本全国、すごい距離を異動されたし、足が重いのも長年の疲労のせいだと思います。あと、風邪は万病の元とも言いますしね。とにかく、今日夕方でも、医師をつれて参りましょう。それとおりきもできれば、、、、」と言って頭を下げると、早々にひきあげてしまった。
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プロフィール

作者:福田純也
福田純也
性別:男性
男性

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