林蔵は、夕方までぼんやりとしながら、天井を見つめ床についていた。女か、、、、。もう大久保様も亡くなったし、こんどこそ、もう諸国をまわるのもおわりかもしれんな。俺の故郷にも、もう両親もいない。墓だけは立派だが、あそこにいても誰もいない。この江戸でゆっくりと余生をすごせというのは、天命かもしれない。
俳諧師の小林一茶殿は、隠居後、江戸を引き上げたが、俺はここで余生かな。もっとも、江戸ではまだなんだかんだ言って必要とされているみたいだし、いかにして俺を慕ってくれる若い人に伝えていくかな、と考えた。
夕方になって水守は、医者と薬箱を持った供の者をつれて再びやってきた。
医師は枕もとに座り、半身を起こした林蔵に症状をたずね、脈をとり、身体にできた赤い発疹をしらべると、
「これは湿毒ですな」というと、早速薬を調合し、まもなく帰っていった。
医者が帰ってからほぼ入れ違いのように、おりきがやってきた。40歳というが、30くらいにしかみえず、身体は、林蔵より少し大きかった。まだ水守は残って、林蔵と地図のことを話しているところで日は沈んでいなかったので林蔵も寝床から半身おこしたまま、おりきを見つめた。
「おりき、よい時に来た。こちらが間宮林蔵様だ。覚えているか」と水守がおりきに声をかけた。
「おりきでございます。よろしくお願い申します」と言うと、早速、炊事を始めた。
その日は、水守も一緒に、3人で夕食をとったが、翌日からは毎日泊まりこんで林蔵の世話をすることとなった。
ついに女と同居か。それにしても思っていたよりいい女だ、だが俺は、と林蔵は病身を悲しく思った。おりきを見るとやはり、再びむらむらとする反面、長く一人で好き勝手に生きていただけに煩わしく思えた。
それに梅毒となれば、やはり手を出してしまえば病気を移すこともあろうし、どうしていいかわからず、じっと身を横たえていた。
またこの頃大坂から江戸の勘定奉行となっていた矢部定謙や、吟味役の川路聖謨等が見舞いに来てくれた。
またアメリカのモリソン号という船が日本の漂流民をつれて、浦賀まできたが、浦賀奉行は外国船打ち払い令にもとづいて砲撃をして追い払ったことをきいた。
九月にも伊豆国の代官江川英龍から見舞い品が訪問してきて、さらに十月には水戸藩の藤田東湖らも水戸の沖合でとれたあんこうや、薬だと言ってイノシシ肉を持参して見舞いに来てくれた。林蔵はふとんで半身をおこしながら、ありきにあんこう鍋を調理させると、みなでおいしくたべた。
天保9年になったが、相変わらず、病身の身体、重く感じて厠に行く以外は、ほとんど布団の中にいて動けなかった。
もう58歳だが、このまま60にならずに死ぬのかな、そんなことを覆ったが、意外と食欲はあり、おりきに世話してもらった。
いつも一人だったが、今はおりきがほとんどいるので、何故か不安もない。それに、今でも親しくなった若い人たちが見舞いにたびたび来てくれたり、彼らが来ない時は使いの者がほぼ毎週、意見を乞うせいもあり、いい意味で気が張っていたこともあり、命つきるまで!と思い、林蔵は自説を伝えた。
春になって、すでに江戸で隠居していた白髪頭の松田伝十郎が、朝鮮人参を持って見舞いにきてくれた。
「林蔵、病気とは残念だが、そちもついに妻を迎えたのじゃな」と少し笑顔になって言った。
「いいえ、ちがいます。雇い女ですよ。元気になったら、暇を出さないと」と恥ずかしそうに小声で答えた。
「あいかわらずだな、お前は。素直になれよ、お前だって好きだろう。もう若くないんだぞ。身体がよくなったら、いずれ登城する日も来るだろう。彼女にしっかりと面倒をみてもらってしっかり養生せい」といって、しばらく樺太での昔話で盛り上がったあと、松田は去った。
あの人、俺よりもずっと年上なのに、本当昔から丈夫でずっと若い。俺もこんな病気さえならなければ、くそ!と思ったが、まだまだ期待されているわけだし、何とか治したいと思った。