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 林蔵、奥の道未知!をいく

 江戸時代の探検家、間宮林蔵を題材とした小説です。

その五

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その五

天保12年になり、あいかわらず水戸家から届けられた薬をぬり続け、江戸周辺まで外出できるようになった。
 暖かくなり、桜の花も散り葉桜になった頃、林蔵はついに、おりきを抱いた。おりきはとっくに林蔵の病気を知っているようであった。

 さすがに彼の口から湿毒とは言えなかったが、いつも身体中、薬をぬってくれる彼女をみていると情欲が湧き、ついに我慢できなくなった。
同じふとんで林蔵はつぶやくように言った。「おりき、すまんな、私は、、、、」
 おりきは微笑んでいた(目は少し潤んでいるようであった)
 「わかっています、でもいいのです。やっと抱いてくれましたね。うれしいです」
 林蔵は黙った。俺が生きている証し、それは水戸家への忠誠だけでない、今のこの時をいかに燃やすか!、そんなことを思ったが、おりきにも感染するやもしれない。それで今までさけていたが、おりきは全てわかって喜んでうけ入れたようであった。

 林蔵はまた一茶を思い出す。俺もついに妻をだきましたよ。病気でろくに動けなくなってからやっと妻をめとるとは、運命ですね。
 それから2人は、だれも来なかった日、夕立から雨が降る日は、同じふとんで寝るようになった。
 俺もまた再発するだろう!この女も俺のあとを10年か20年後には追うだろう。おりき自身もわかっている。それでいいんだ。人間50年の時、60もこえて長く生きたしな。もはや若い人がどんどん出ていくはずだろうから、エゾへ行く必要もない。俺自身、もうあそこまで歩けない。
もちろん、生きている限り、やれることはやりたいが、人は必ず死ぬんだ。俺流か、いやみんな大同小異だが、まだ生きているから、命を燃やしたい。

 そんな悟りの気持ちに入った。正についに、妻を迎えた気がした。ついに、独り者を終わることができた。夏の夜の夢かもしれない。でも、夏だけで、きっと終わらない、まだ生きているのだから。
 
 10月、林蔵は、故郷の田原で永蟄居の刑で家にいた渡辺崋山が自刃したことを知った。また、以前の大坂前奉行で、その後、江戸の南町奉行であった矢部定謙が目付の鳥居耀蔵によって辞任となり、かわって鳥居自身が南町奉行に就任した。
 林蔵がおりきと一緒に体をあわせるようになったのも、そんな悲しい現実からの逃避だったかもしれない。病気で体力も衰え、それでもなぜか納豆や山芋やしじみ汁を好んで、ほぼ毎日獲っているからかわからないが、精力と酒は強く、それだけが楽しくなった。それに60になって病で隠居状態だからか、鳥居も林蔵には何もしてこなかった。

 天保13年(1842年)正月になっても、あいかわらず江戸は寒さだけでない、ひっそりとした暗さが感じられた。

 天保の改革の元、徹底的なぜいたくの禁止令となり、銀製の煙管は没収、ぜいたくな着物を着ている者が路上で裸にされたり、暗い世の中となった。
 同時に林蔵もある冷えた晩、風邪をひき、それが引き金となって再び身体の調子が悪くなっていった。健脚だった足も今やすっかりたるみ、目まいをしたりして、また時おり発熱をしてふとんに横たわってしまった。

 まもなく一緒に樺太を探検し、俳諧師の小林一茶を紹介してくれた松田伝十郎が、正月に亡くなったと知った。72歳(数えで74歳)の大往生であった。なくなる前までも郷里の越後まで元気に歩いたとかで、最期は老衰のようであり、苦しむことなくいったとのことであった。林蔵は悲しんだが、もう俺もそろそろいきますよ、あの世でも一緒に未知の旅を、また
先輩としてよろしくお願いしますよ、と心の中で言った。
 七月に入って、幕府は異国船に対しての扱いを改める薪水給与令をだした。打ち払いをやめ、薪や水を与え穏便に退去を求めるということで、鳥居耀蔵は反対したが、伊豆代官の江川英龍が指示し、幕府はこの主張を容れた。
 林蔵にとってこの知らせはうれしかったが、本当、30年前なら俺もだんこ戦うといったのにと過去を思い出し、一人苦笑した。やはり、あの頃とちがう。ロシアの他に、イギリスも強く、この時、アヘン戦争で清国が大敗をきしていた。

 清がイギリスに負けた。次は日本もあぶない。そんな空気から異国船に紛争の口実を与えないことには賛成であったが、樺太はどうなるだろうか。それだけ清も弱いとわかれば、ロシアが南下してくるかもしれない。それにシーボルトがら地図をとりかえしたが、すでに樺太は島であることはばれている。

 シーボルトがそれを西洋諸国で紹介したら、今度はロシア海軍がきて、樺太占領をたくらむかもしれない。林蔵はそう思うと大変に心配になり、おりきに自分の思いを口述筆記してもらい、水戸藩や伊豆代官の江川に向けて書状を出させた。できることなら、彼らにまた地図の複製をみせて、議論をしたくなった。
 だが、国内ではあいかわらず鳥居による陰謀がつづいていた。
 以前、奉行職をおわれた矢部は、抗議の絶食を行い、亡くなったという知らせをきき、ふとんの中で林蔵は泣いた。
 
 俺は幕府に仕え、必死にがんばってきた。だから今も年金ももらえているが、結局、何もできない。自らの限界をまた自覚すると、何だかもっと病状が進んでしまうようであった。
 だが、12月になり、江戸に来た江川が、林蔵の家にも見舞いにきてくれ、久しぶりに長く話をした。江川は、林蔵を慰めるように声をかけた。
 「天保の改革ももうおわります。水野様は来年にはもう失脚しますよ。そうなれば、再びもっと幕府はかわります。林蔵殿も、またいずれお城に登城してもらう日が来るはずです。それまで、ゆっくりとなされるといい」と声をかけられて喜ぶと、林蔵もまた、江川に測量で得たエゾや樺太のこと等を話した。
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作者:福田純也
福田純也
性別:男性
男性

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