当初、漂着した者は、盗人と誤解されて地元の原住民から虐待をうけたが、その後、清国人の役人がきた際、漢字で事情を説明したら、役人にわかってもらえて無事、保護された。その後、北京までつれていかれて、厚遇してもらい、日本への帰国を希望したのち長崎への船で日本に戻ったと簡潔に記すと、相手の清国の役人が納得したような顔をして、また続けた。
「その日本人たちは漢字が書けてよかったな。筆談できるからな。このあたりの民族はみな無学だ。日本は離れた島国ときいているが、船で朝貢に来ているのか」
ときいてきた。
林蔵は「日本は、清国に入貢していない。日本の長崎で貿易をしているが、日本人は通常、海外に出ることは禁じられているので、清国まで行って貿易していない。清国人が長崎に来るだけだ」とこたえると、けげんそうな顔をした。
「まわりの国はみな清国に朝貢している。日本がしていないのは信じられない」と役人が筆談したが、「朝貢はしないが、日本人も漢字を使っている。漢字があるから、それは良いだろう!」と林蔵が筆談すると、相手も少し納得したような顔をした。
その後、清国の酒をすすめられ、グイっとのむ。以前、コーニがもっていた酒と同じであったが、緊張しているのだろう、なぜか酔っていないようだった。すると清国役人の一人が、きいた。
「こんな遠くまで一年近くいて、あなたの妻は寂しくないのかな」
「私は独身だ」と林蔵が答えると、役人はまた驚き納得した。
「日本に帰って結婚したくないのか。女がいないと不便であろう」と聞かれたので、
「あなたも家族と離れて、単身か」と林蔵は聞き返した。
相手はうなずいて、また酒をあおった。
林蔵は、ふと、昨夜、泊まっていた仮小屋から見た三日月を思い出すと、李白の静夜思(せいやし)という漢詩を書いた。
「庄前看月光(庄前、月光を看る)
疑是地上霜(疑うらくは是れ地上の霜かと)
挙頭望山月(頭を挙げては山月を望み)
低頭思故郷(頭を低れては故郷を思う)」
と書いた。
役人は、李白と中国語で言った。林蔵は、当然、発音はわからないが、おそらく詩人の李白のことをいったと思い、「李白」と記すと、役人はにっこりと笑った。
「日本人は李白を習うのか」と聞かれたが、「日本人で漢字を習う者で、漢詩の好きな人もいるが、私はあまり知らない。李白も静夜思だけだ」、と筆談で答えて、また新たな紙を書いた。
「今まで必死に来た。遠くまで来て、ここはロシア人が侵入していないので満足している、それで嬉しく昨晩、酒をのんだら、ふと李白の静夜思を思い出した」
「いい詩を思い出してくれたな。あなたが日本を思うよう、我らも北京の都を思い出す」
林蔵は、ふと役人からお前に北京につれていきたいと言われるような気もした。というか、酔ったせいもあるのだろう。自分自身、そうなってもいいような気もしていた。それなら、帰りは清国船で長崎に入って帰国できるであろうし、こんな所まで行きながら、まだ日本では長崎のある九州どころか上方すらいったこともない。長崎の地も気になっていた。
いやまてよ、俺は何を考えているのか、あくまでも、今回の目的は樺太北部の調査である。それに万が一、北京に来てからは、密偵と怪しまれれば、今度こそ、北京や、その途中で殺されるかもしれない、俺はバカなことを考えている、とにかく酒を飲んで、今を楽しもうと思った。
やがて役人の一人が李白の漢詩で酒の詩がある、あなたに、酒と共に授けようと筆談すると、新たな紙に漢詩を書き出し、林蔵に渡した。