6月26日、ついに朝貢に向かうコーニの一団と共に舟にのった。みなで8人、コーニの準備してくれた舟は、アイヌの小舟より大きかった。まずラッカまで行く。ここからなら大陸とは目と鼻の先だからすぐ着く予定であった。
ただ、今度もラッカに着くと霧がひどく視界が悪い。旧暦の6月下旬は今の暦だと7月下旬だから、真夏である。なのに、向かい風も強く、結局、数日間、野宿をした。天はどこまでも俺の邪魔をするか、と林蔵は憤りをおさえねばならなかった。
そう言えば東海道でも、箱根八里は頑張れば越えれるが、大井川は梅雨の時期は何日も渡れなく待たされる、と、江戸で伊能忠敬から聞いたことを思いだした。日本の内地の大井川でもだめなら、いくら樺太から目の前でも大陸に渡るのは、国禁を犯した天罰か、と思ったりした。でも、すでに、(乗りかかった舟)である。
これは、ことわざでなく、正にその状況である。蝦夷に戻った後、奉行へ、大陸に渡ったと報告すれば、手柄でなく、やはり、今度は密航だと、処罰されるのだろうか。
また不安を感じる。だから黙っていればいいか。いやいや、行ったことはやはり報告しないと。自分は南へ行きたがったが、現地人の都合で、大陸まで行って(迂回して)樺太南部に行くことになり、それしか帰れる舟がなかったのでやむえず乗ったとか言おうか。
ロシアはキリスト教国だから、ロシア人がいるのに渡ったと言えば、それこそ処罰されるけど、清国は違う。漢字を使う同じ東洋人であるし、それこそ徳川幕府が学問として公認している朱子学だって漢文で、もとは大陸の学問だろ!
しかも、長崎で貿易もしてるし、たしか江戸にいた時にきいたことがあるけど、長崎の出島のオランダ人は、十数人だが、唐人街に多い時には千人も清国人がいることもある。確かに日本人が勝手に大陸の清国まで、長崎からでも渡海することは禁じられている。だが、俺は、樺太でロシア人にも清国人にも会わなかったし、本当に清国が来てるのか、それともロシアが北から来たから清国は勢力を南に移動したか、それを確認するために行くのだ。長崎から清国に渡るには、大きな帆船で行っても何日もかかるようだけど、ここなら対岸だ。行って悪くはないはずだ!と再び自身に言い聞かした。数日たってやっと海が少し穏やかになり、大陸がかすかに霧のあいまからみえた。
早速、8人で大陸に向かって舟を漕ぐ。大陸に近づくにつれて速度をおとし、慎重に進むと、やっと、コーニたちが以前つけた湾についた。着いた。ついに大陸だ!
過去、日本人でここまで来た人は、漂流者以外、誰もいない。林蔵は一瞬体がふるえた。上陸してあたりを見たが、誰もいなかったのでここで野宿をすることになった。
湾で、漁をして、新鮮な魚をたくさんとると、林蔵の持ってきた清酒を呑み、どんどん焼いてみなでがつがつと食べた。
そして、翌日、舟を進めると、ムシホという入江である。すでにコーニや林蔵とは別の他の舟が引き上げてきたようであった。樺太でない大陸の他の部族もここまで舟で来て、朝貢か、それとも交易にデレンに向かうようであった。