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 林蔵、奥の道未知!をいく

 江戸時代の探検家、間宮林蔵を題材とした小説です。

その七

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その七

林蔵は、デレンにいる間、清国の役所がどうしてできたか、多少詳しく知ることができたように感じた。彼は、江戸や蝦夷にいた時に知りえた知識と今回、実際会って得た知識を合わせて整理していくうち、なんとなく納得した気持ちになった。
 
 アムール河の下流地域はもとは中国の勢力とは離れていた。日本で鎌倉時代(13世紀)、中国は、当時、漢民族の南宋国の時代、金という国が別に、今でいう中華人民共和国の東北部の辺りにあり、この地域も支配下にあった。そこに内陸から蒙古(モンゴル)のジンギスカンが攻め、金を滅ぼし支配した。
 ジンギスカンの孫のフビライが、中国の北部に元朝を興すと、高麗(朝鮮)、さらに南下して、南宋を滅ぼした。その後、日本でも元寇があり、対馬や博多湾等、2回侵略をうけたが、樺太へもモンゴル軍が攻め、アイヌ人と戦ったようであった。
 その後、明朝が新たに中国で成立すると、モンゴル民族である元は北へ追われることになった。これが北元といわれる事件だが、明の時代はアムール河の下流まで、勢力は及んでいなかったようである。
その後、今の中国の東北部で勢力を持った満州族の女真人が、明を攻略すると、今度は自分たちが清朝を興し、中国全土を支配すると共に、各地に勢力を拡大し、ついにアムール河の下流の東韃靼まで勢力を持つに至ったようであった。

 その後、はるか北西から侵入してきたロシア人とぶつかるが、清国軍が大軍で攻め、優勢であったことで、ロシアは、ネルチンスク条約でここから撤退した。それから、清国はアムール河の目の前の樺太北部まで進出し、この地域の民族を服従させた。
 デレンの街には清国商人もきているし、各部族の他、李氏朝鮮から朝鮮族の商人も来ているとの事であった。

 さて、これから数日間、コーニたちは地元の部族とも交易を行い、それが終わればまた、樺太に戻る予定であった。
 
 その間林蔵は、一人で歩くと他の種族から、見慣れない風貌であったことから、突然、別の部族からもおそわれそうにもなったが、なんとかコーニたちのおかげもあって難を逃れることもできた。

 それと、もう一度、清国の役所にあいさつをしてから帰るとの事であった。清国の役人からは、漢字を扱う日本人をまた連れて来い、と言われているので、また一緒に来てくれと、林蔵は言われた。
 
 林蔵も、当然承諾した。というか、心中は待ってました、やはり俺の出番だ!、と言う気持ちである。

その夜小屋から月がみえた。きれいな三日月が夜空を照らしていた。

 林蔵はコーニが交易でもらった中国の酒を飲み、デレンの原住民に飼育された豚肉を食っていた。豚なんて、樺太でも食べたことがない。林蔵は個人的に獣肉も好きだったが、日本では四ツ足の肉としてけがらわしいと思われていたりする。食べるとしても、うさぎは跳ねるから、鳥のように一羽、二羽と数えて、無理やり鳥だと言って食べる。
 猪は、これも実はよく食われていたが、山の鯨で薬だ!とこじつけて食べたりしているが、これも野生の動物であった。日本で、薬を食べるよう言われる獣は飼育でなく、猪、ウサギ、鹿、狸、熊、更に、当時まだ日本にいた日本狼、等、皆、ももんじ屋で売っていて、高価ながらも一部の人から食されていたが、通常、近江の牛を除いて、野生の獣であった。
 
 "楊貴妃は、きれいな顔で豚を食い" 当時の日本で詠まれた川柳にもあるが、一般の日本人は通常、豚食べなかった。ただ、清国では、豚はあたり前に食われている。清国は、東洋の国だが仏教ではないのだろうか。でも、ここもキリスト教を禁止しているとのことであった。
肉食が嫌われたのは仏教の教えというより、やはり島国で、海岸なら漁の方が盛んだろうし、日本の八割は農民で、米という主食が毎年の年貢のように日本では定着しているし、肉は勿論、魚でさえあまり食えないで、米ばかりを食べているからかもな、と思った。
でも、樺太の北部に着いてからから、その米もあまり食えないことが増えていた林蔵は、豚肉もうまそうに食した。
 清国の酒も意外とうまい、というのもあるが、目的をほぼ達成できたから、安堵していて、何を食ってもうまいのだろう、そんな気がした。
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プロフィール

作者:福田純也
福田純也
性別:男性
男性

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