それからしばらく経ち5月になり、梅雨入りになった。もう、あの手紙、和解されているだろう!と思うが、何と書かれていたのだろう。いつも心のどこかで気になりながらすごしていたし、そろそろきいてもいいだろうと思って、村垣の役宅に向かった。
一室で待たされていると、村垣が入ってきた。
「林蔵、よく来てくれたな」と村垣は言った。
「シーボルトから私あてに送られてきたオランダ文ですが、何と書かれていたのでしょうか。和解の方は終わったかもと思い、参上いたしました」
「うむ、和解はおわった。なんでも高橋景保殿と話をしているうちにお前の話がでたようで、樺太の探査をすごくほめて、また今後、親しくなりたいとのことだ」
村垣の言葉に林蔵はうれしくなったが、また疑念の心がうかんだ。
「私のことをほめて頂きうれしいですが、なぜ、西洋医学をやっていたオランダの医者が、樺太に興味があるのでしょうか」
「うまく言えませんが、医者として来日していますが、実は何か日本のことを調べたいのでしょうか」林蔵は続けた。
「うむ、今まで、オランダ人は長崎にいても許可なく出島からはでられないが、シーボルトは長崎の街にも診察して外出も許されているし、たくさんの日本の医学者にオランダ医学を教えていて奉行も特別に黙認しているな。実は、景保殿もシーボルトを江戸では数回訪問しているし、今も連絡をとりあっているようだ」と言った。
林蔵は、景保とは最近会っていない、もともと、10年前に亡くなった伊能忠敬の紹介で会った方で年も近かったが、どうも親しくなれなかった。自分が生まれながらの武士でなく農民の出ながら苦労して出世したこともあって、同じ境遇の最上徳内や松田伝十郎のほうがまだ話もしやすかった。最上徳内ももう70歳をこえているが、ずっとエゾにいて、アイヌ語や向こうでの生活を指導してくれた方である。
それに比べると、景保はちがう。ずっと江戸にいて、上から指図だけをしている人のようで、エゾにも行ってない人である。もちろん、江戸に残っても天文方としてお役目もあるし、伊能忠敬たちが日本中歩いて作った日本地図もまとめて江戸で整理する必要もある。わからないわけではない。だが、真冬の樺太で、凍傷になり死にそうになるような探検をしてきた林蔵にとって、高橋景保は尊敬できない人であった。むしろ、手柄を横取りされているように感じていた。あと、やはり、最初に会った時の一言だろう。
「林蔵、よくそこまでがんばったな。だが、樺太の東海岸は2回もいったくせに測量できず残念だったな」といったことを酒席の場で言われた時も、大陸の東韃靼に行った勇気や行動をほめていない、むしろ、そんなことより、なぜ樺太の東側にはいかなかったのだ、と少し不満そうであった。
それでは樺太が島か大陸かどちらかということはわかったが、外海に面した樺太の東側(オホーツク海に面した方面)はどうなっているか、わからないじゃないか!と批判をあびたように感じた。どうもあの人は東韃靼にわざわざいかなくとも樺太が島とわかったらさっさと東へ行けばいいと、言いたかったようで、酒に酔った林蔵は内心怒りに震えそうになった。
あの場では伊能忠敬がうまくとりなしてくれたが、もう大恩人の忠敬もいない。天保方の景保は日本の国防のことにはあまり関心がなく、ただ西洋においつけと、緯度、経度や、樺太が島であるか否か、西洋でもいまだ未知の場所である樺太についてだけしか関心がなかった。彼にとってはアムール川を渡るひまがあれば東海岸に行ってほしかったようであり、またどれだけ天候が悪く、また冬はどれ程寒いかもロクに体験していないからわかりっこない。
実際、エゾでも20年前にロシア艦が来た時に警備にかり出された奥州の藩士がたくさん死んでいる。でも説明したところで、決してわからないだろうし、お前らは農民出だから外にでて土を踏んでいる方が得意だろう、という感じである。だから自分とあの人とは決して交われない!と思った。
村垣の役宅を出て帰路歩きながら林蔵は、20年前、まだ若かった頃、エトロフ島でロシア船に攻撃されたことを思い出した。
択捉のシャナ会所でやはり指揮していた戸田又太夫も、最後まで身分の高いお役人であった。あーいう人に限って、江戸や箱館では得意な態度である。いや、択捉の会所でもそうだった、ロシア艦が本当に来襲するまでは。
本当にロシア艦が攻めてきたら、相手の脅しのような空砲にさえおびえてしまい、急に退却しだす。それでいて下役人の林蔵に対しては偉そうな上から目線であった。林蔵は役人がみんなそうだ!とは思いたくなかった。なぜなら、徳川幕府はなんだかんだ言って、林蔵にとっても絶対的な存在である。
大権現様(家康)が江戸に開府以来、2百年も続いている大きな存在で、農民出身の林蔵を下役人とは言え、少しずつ出世させてくれたところである。しかし、そこには、先祖代々の家柄の役人がすぐ下に仕えている。
それはそれで仕方ない。地方だってみなバカ殿と言われているように上の殿の多くが自主性のない人だから藩もうまく改革しているようにも思える。だが、身近にそんな人が上司として、下手に現場にでしゃばってくるのは、やはり不幸だと思った。