そんなことを思い続けた林蔵は、景保が何を欲しているかをなるべくゆっくりと思い出してみた。やはり、日本人が誰も行けなかった樺太東海岸の図面ではな いか!もしかしたら、西洋ではロシア艦が樺太の東海岸の沿岸を通っているから、我らとは逆で東海岸の作図はもうとっくにできているだろう。彼らは樺太が大陸とつながっていると思い、アムール河付近や西海岸は調べていない。
だが、大きな船の通れる東側(外海)はオホーツクから、エトロフまであのロシアのゴロウニンも言っていたが、航路があるわけだから、艦で測量をしている かもしれぬ。それに天候がわるく日本の小さな舟ではとても無理だし、陸路も困難で日本人は誰もあそこには行かないから、ちゃっかりロシア人が測量しても気 づかないわけだ。
それにロシアが測量した東側の地図はヨーロッパではもうヨーロッパ中にあるのかもしれない。イギリス船も捕鯨目的で何度も日本近海に来ているし、オランダ人なら当然、持っているかもしれないだろう。
もし、江戸に滞在中のシーボルトが、高橋重保様と会っていれば、それも数回、しかも自分のことまで紹介している。景保様ともしかしたら、そんな樺太の話もでたかもしれない。
もしかしたら、もしかしたら、あの人はシーボルトに俺が作ってやった地図を渡しているのではないだろうか。
林蔵はそんな気がしてきた。
西海岸の地図(樺太が島であるという証でもある)をシーボルトに渡し、かわりに東側の樺太の地図か、詳しい情報をシーボルトから入手してあわせれば、あの人の夢である、樺太全図がわかる。幕府にとって、というか、それで、更なる出世にもなるだろうからよかれ!とあの人なりに思ってやっているかもしれんな。
もしかしたら、村垣様は、わしに任せておけと言ったが、そこまで実は調べているかもしれない。
俺があと知っているのは何だろう。あとは、景保様が妻もいるのに妾もいるとか、みんなで芝居をよく観劇するとか、金づかいがやたら荒く借金しているので、昔は伊能忠敬さんが代わりに返済してあげたりしたことだ。忠敬先生も、師匠である高橋至時の息子で天文方の跡とりだから、かなり面倒をみていたようだが、今はもう先生もいない。
オランダの珍しい宝石か、金品をもらっていたかもしれない。
また、今日のことで、異人からの贈り物を幕府に届けた自分、そしてもし景保様が届けていないなら、そしてこのままずっと届けないなら、すでにこれは何らかの処分があるかもしれない。俺は、もしかしたら、師匠の一人故忠敬先生の大切な人を罪人にしてしまったかもしれない。でも、仕方がない。これは幕法だ!
林蔵はしばらく待ってみることにしようと思った。勘定奉行にお任せあれ!とおっしゃってくれたし、とにかく俺は悪くない!
そう思って歩くといると、いつの間に家の前であった。
8月9日は、長崎にて大きな台風が襲来した。
翌朝には風雨はおさまったが、長崎の被害はひどく、2千以上の家屋が倒壊し30名の人が亡くなり、港内にも高波が押し寄せ、出島のオランダ人も特別に、役人の手で出島外に避難していた。
まさに江戸から指令をうけていた役人が長崎にもいるが、出島の復興作業と称して、続々と中に入ってその実積荷の調査が始まった。
その中にはこれから船につみこむ予定の荷物があり、まずそこからこっそりと調べる
すると、なんと、海外へ持ち出し厳禁の日本と樺太の地図や、将軍家から下賜された葵の紋の入った羽織等がまじっていた。
それらは当然、日本人がシーボルトに渡したものであり、シーボルトは国禁をおかしてオランダ本国へ持ち帰ろうとしていたことが明白となった。
そういった情報は次々と早飛脚で江戸に伝えられ、江戸からもすぐに継続してシーボルトの行動についての調査の指令が届いた。
それからシーボルトが鳴滝塾で門下生たちに医学を教えながらも、日本のことを知りたいといった希望で、日本の情勢について次々と論文を提出させていたことが、調べられた。
また、旅の途中、長崎から同行させた絵師、川原慶賀に各地について、たくさんの絵を描かせていたことも明らかになり、また、瀬戸内海の水深をこっそりと測量をさせたり、富士山の高さを弟子の二宮敬作に計測させていたこともつきとめられた。
また、馬関(下関)にある阿弥陀寺では、シーボルトの掲げたオランダ語の絵馬額も発見された。和解した結果、関門海峡をフォンデル・カペルレン海と名づく、という意味になった。カペルレンとはオランダ人総督の名前で、日本の地名にオランダ人の地名をつけて飾ったことで、奉行の役人もカンカンになって怒った。
10月10日(今の11月下旬)の夜、浅草の天文台にたくさんの御用提灯の光が、群れをなした真夏の蛍の光のように天文方兼書物奉行の高橋景保の屋敷にせまると、一斉になだれ込んだ。
高橋景保は逮捕されると、青い網をかけた駕籠の中に入れられ、奉行所へつれていかれ、家族も奉行所へ引っ立てられ、家の中では徹底した家宅捜査がおこなわれた。不審な品物をすべて書き留めて、土蔵に運んで錠前に封印をした。また、押収した書類、書籍は今回の捜査責任者である幕府の日付の役宅に運ばれ、調べられた。
評定所に押送された景保は、すぐにきびしい吟味を受けた。