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 林蔵、奥の道未知!をいく

 江戸時代の探検家、間宮林蔵を題材とした小説です。

その二

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その二

シーボルトが長崎屋に入ると、早速、江戸中の蘭学者たちが訪問を始めた。長崎から同行してきたオランダ通詞が通訳して、質問にシーボルトが答えたり、またシーボルトも日本に関心があったようで逆に質問することもあった。

 またシーボルトが最新の医療器具などをみせ、訪問者は驚き、それらに見入っていた。特に有名なのは、蘭僻(ランペキ)と言われた前薩摩藩主、島津重豪 で、すでに80歳を超えていたが、大変若々しく、重豪にとってひ孫の斉彬(後の島津藩主、名君の島津斉彬)を伴ってきていたり、蘭学者で(以前、光太夫を 招いたことがある)オランダ正月の主催者大槻玄沢、桂川甫賢、そして林蔵に関連のあった人物だと、天文方の高橋景保、更に林蔵が蝦夷地の宗谷や第一回目の 樺太への探検でお世話にもなった人でアイヌ語辞典も作成した最上徳内もいた。

 すでに徳内は70歳をすぎていたが、江戸にいたこともあってシーボルトとの対面が実現した。

 特に最上徳内との対面は、シーボルトは感激したようであり、彼は、日記を特別にオランダ語でもなくラテン語でかいていた。もちろん、このことは林蔵の知 ることではないが、最近の発見によると、徳内はシーボルトに彼が編纂したその当時最新のアイヌ語の辞書を贈ったとのことであった。

 さて、8月に、そんなシーボルトとは全く関連のなかった林蔵はというと、筆頭老中であった大久保忠真に、最近急に増え出した外国の捕鯨船のことについて、大胆な建言書を出した。この頃に林蔵は、やはり意見をきくようになる人が増え、ついには筆頭老中までもがありがたいことに彼の意見をきくようになった。

 残念ながら、建言書は採用されなかったが、林蔵の知識の高さや、積極性が高く評価された。その結果、林蔵は、海防関係の隠密として、海岸異国船掛に任命された。

 翌文政10年の春から、まず、幕府から伊豆七島巡見に随行するように命ぜられ、伊豆七島よりはるか南の小笠原諸島は当時、アメリカの捕鯨船がたくさん来航していた。ボーニンアイランズという英語ですでにこの頃、知れ渡り始めている。

 以前に常陸国の大津浜で捕らえられたイギリス人の捕鯨船の乗組員の陳述では、鯨の油だけを採って樽に入れ、あとは捨てて、本国に出航するという。油をとるには脂肪を煮る薪が不可欠で、日本にて薪を求めようとしていた。

 今回、林蔵はまだ異国船上陸の様子のないことを数回確認し、冬島にある武器(鉄砲)の数量などの防備体制を確認して江戸にもどり、また、報告書を提出した。

 江戸にもどり、一人で必死に伊豆七島、伊豆半島などの報告書をまとめ、また必要があれば何度か江戸城へでかけた。筆頭老中からもよくやった!とほめられ、ゆっくり休むがいいぞ、と特別に、御用達の老舗の和菓子北窓(おはぎ)をもらうと感激した。家に帰ってお茶を入れて食すと、さすが、御用達の和菓子だけに大変うまかった。
 
 そして、ついに御用達のお菓子まで頂くことになれた、と充実した気持ちになった。

 年があけて文政11年(1828年になった)、ついに48歳であった。人によっては隠居してる歳だが、いまだ独身だし、家督をゆずる養子もいない。いづれ、時間があったら、好きな絵でもじっくり習いたい、と思うが、まだまだすることがある。自分は一生無役ながら幕府に必要とされている!

 この時期はともかく、春が近づくと風邪をひきやすくなっているし、気をつけねばと思い、上からの指示を待っていた。

 3月もおわりになる頃、いつものように一人で近くを散歩していて

帰路につくと、書簡を小包が届けられていた。
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プロフィール

作者:福田純也
福田純也
性別:男性
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