第十章 オランダ人?シーボルト
春になり、桜が咲き始めると、やがて満開となり、各地で花見が催され始めた。
桜が咲く前から、長崎からオランダ商館長一行が、将軍への謁見のため、江戸への長旅をしていたことは以前から街中で噂になっていたが、ついに江戸に入ったという知らせが入った。
5年に一度、長崎の出島にいるオランダ商館の商館長が雲居の将軍に謁見することは決まっていた。一月中旬(今の3月初め頃)に長崎の出島を出て陸路で小倉まで進み、そこから瀬戸内海を舟で行き大坂まで進む。大坂から京まで淀川を上り、京から東海道をすすむ。
どこでも街道はオランダ人を一目見ようとすごくにぎわい、また、旅人の中には彼ら一団を見た者がすでに江戸入りしているせいもあって、江戸でもいつ来ると噂になっていた。
何故、江戸に来るか。江戸城へ登城し、将軍の拝謁を得ると同時に、世界の情勢を伝えることも義務となっていた。
江戸では、商館長一行は、日本橋本石町の長崎屋に泊まることになっていて、今回も早朝から夕方まで多くの見物人でいっぱいであった。
しかも、その年の商館長一行には強い関心が集まっていた。3年前の文政6年(1824年)、来日して商館に着任したフランツ・フォン・シーボルトというまだ30歳の医者が随行していたからである。シーボルトはオランダ人でなく、ドイツ人で大学で医学を修めて、赴任してきた。
オランダ人をよそおって入国した際、奉行オランダ語通詞が、シーボルトの話すオランダ語の発音が違うので怪しんだが、私は山間部のオランダ人だといって、入国したと言われている(オランダに山間部はないが、幕府も西洋の地理に疎いこともあった)彼の医学知識は当時では最新のもので、例えば18世紀、イギリスの医学者が発見した牛の種痘の治療の存在も彼が長崎から日本に伝えた人である。実際、持参の種痘はすで使えなくなっていて失敗したが、ずっと後(嘉永2年1849年)彼が長崎で教えた日本の弟子によって成功している。
オランダ商館長は、長崎奉行を通して幕府にシーボルトの医学知識を日本の医学生に積極的に伝授したいと申し出ると、長崎奉行もそれはすばらしい!と支持し、シーボルトが医学の講師として病人の治療に従事できる機会を与えてほしいと要請した。
幕府内でも、オランダ医学を導入することでもっと日本の医学水準を高めるべきだとの意見が強くなり、まずシーボルトに出島を出て長崎市中で病人の治療をすることを特別に許可することになった。
また、幕府は、長崎郊外の鳴滝に塾を開かせ、シーボルトに医学の教授を行なわせた。奥州の水沢出身の高野長英等、全国から長崎に西洋医学の修業に来ていた医師たちはどんどん鳴滝塾に入門して、シーボルトから医学を吸収していた。
彼の名声は日増しに高く、かつて来日した医官の中では一番すぐれた医学者という噂が広がり、上方から、ついには江戸にも伝えられていた。
西洋の知識に関心を持つ医師、蘭学者たちは、早くからシーボルトが江戸に来るのを楽しみにしていた。そして、シーボルトも、期待にこたえて、多くの医療器具やヨーロッパの器具など(荷物の中には、将軍家に献上予定の楽器のピアノまであった)をたずさえ、江戸に到着した。