江戸へ向かうと、また一人、孤独な思いにかられてしまう。親も兄弟もない天涯孤独な身、もうどうなろうともかまわないといった気持ちと、孤独になったからこそ、妻をめとりたいという気持ちがまじりあって、結局、答えは出なかった。
ただ今は、与えられた任務をやるのみ、これしか道はない!たとえ命を落とそうとも!と思った。
文政9年(1826年)、林蔵は42歳になった。
母が亡くなりついに一人になった寂しさは、仕事に没頭しても心に穴が開いたようで、酒量やたばこの喫煙回数も増え、また日によっては食いすぎて食あたりを起こしたりした。また、年末、急に寒くなると、彼らしくなく、あっさり風邪をひいてひどい鼻づまりと熱で正月そうそう寝込み、治っても時おり耳なりがした。
それから間もなくして春一番が吹いたあと、松田伝十郎が、実家で墓参りをすませて、江戸に戻ってきた。「林蔵も、この任務がおちついたら妻帯できるといいな」と言われた。彼は若い頃、松田家に仕え、そのまま婿養子となり子にもめぐまれていた。
松田伝十郎は、もともと越後の農民から、先代松田伝十郎の養子となった人であり、先代の娘のいわばむこ養子でもあった。だが、林蔵は、村上島之允の養子でなく弟子であり、また、村上貞助を養子にしたように、島之允にも妻もいなかった。男の方が女の倍以上いる江戸で妻をみつけるのは無理だな、と思った。
また、松田伝十郎は江戸へもどる際、越後から近い北信濃の小林一茶を訪ねたとのことであった。
一茶自身、4年前(58歳)の時に脳卒中で倒れていたとのことである。4人の子と奥さんが亡くなっていたことは知っていたが本人もそのせいで一時不随になっていたとは知らず驚いた。ただ、それでも、意外と元気そうであったとのことであった。
「一茶殿は、2番目の妻とも半年で別れたが、また、今年中に3番目の妻をめとり必ず子孫を残します、といってたな。あそこまでいくとすごいね。執念だよ」と松田は感心しながら言った。
「私にも手紙で、4人のお子さんと奥様を亡くしたとかいてありましたが、ご本人も半身不随だったとは驚きました」
「あのひとは昔から見かけは決して丈夫そうではなかったがね。それに今も決して言わないが、若い頃からよほど鍛えていたのかもしれない。まちがいなく隠密だ。でも句も2万句も詠んだというし、文才もある」
「そういう松田様もまだ私よりもよほど元気そうで何よりです。今度は一茶様のこと教えて頂きありがとうございました」と林蔵が言うと、松田は信州路で買った蜂の子の佃煮を出してくれた。
「信州ではよく食われている郷土食だ。耳にもいいぞ」とやさしく言うと、ちょうど耳鳴りがしていた林蔵は感激して頭を下げた。(第九章終わり)