林蔵は早速、語り始めた。貞助はそれをきいて、筆を進めていった。
記憶だけに頼ってはいけないので、林蔵も当時現地で記した記録、また、樺太にいる際、時々内地の高橋重賢あてにおくった記録を返してもらっていたので、全てを手元において、それを見て懐かしがりながらも、また話した。
話をしていると、やはり、思い出が次から次へ出る。話しながら、ついつい客観性というか観察した事実より、自分の感じた気持ちが多くなっていく。そうなると、知らず知らず脱線したり興奮気味になっていった。それでまた、話を止める。
貞助も、毎日少しづつ熱心に聴いてくれた。彼が奉行所にいかない日は、朝餉をすました後、来てくれたりして、一日中、書いていた。
冬地の風景、野宿した時の様子、アイヌの舟、また彼らが漁や狩りをする姿、そして、何と言っても、朝貢における清の役人への態度、そして林蔵が役人に招かれている姿は、一番、貞助を驚嘆させていた。
そして、デレンでのことを中心に、たくさんの林蔵の絵もみせて、模写してもらった。さすが亡父、村上島之允様の養子だけのことはある。全て、見事で、林蔵は感心した。
さすがに私事は言えなかったというか、李白の詩や自分の詠んだ歌は、あくまで口述筆記しないよう頼んで話したが、清国役人が、李白の「客中行」を書いてよこしてくれた話を聞くと、
「清国も当たり前ですが、漢字の国ですものね」と貞助は、しみじみと答えた。
漢文や漢詩を学んだことが清国役人と会った時に意外と役に立ったのは事実であった。学問で、論語の素読から始まり、漢文の読み書きにある程度精通することは、漢文だけでなく、更に別の語学、例えばアイヌ語などの学習にも知らず知らず役に立っていたようにも林蔵は感じていた。
春が近くなってきた。松前も、4月に入りだいぶ暖かくなってきた。貞助も口述筆記したもの清書に向けてあいかわらず協力してくれてりた。口述筆記がおわってからは、毎日訪ねてくることはなくなったが、それでも、役所の休みの日には来てくれた。
林蔵も、口述筆記が一段落ついてから、またほっとしたのか、気の緩みから風邪で寝込んでしまった。樺太では、毎日あんなに寒かったのに、まだ元気であった。やはり、気をはっていたのかもしれなかった。
口述筆記までおわって、愉しいことながらもやはり、一人よがりでない文書の提出となれば、神経を使ったのやもしれなかった。また、身のまわりの世話をして、まわりからはののと呼ばれているアイヌ女性のノンノも、いつも来てくれていた。
今までこんなことは本当にない。俺は、女に、身体だけでなく心もうばわれ骨抜きにされた。うばわれたというより、いやしてもらった!という気持ちである。
蝦夷に最初に来た時はすでに、女郎屋に入ったことがあったが、すぐに冬の寒気がきびしく、食事をかえたり、治している間、女を求めようとは思わなくなった。
その後、元気になって、また気晴らしで箱館では数回女郎屋に通った。それから、蝦夷地の海岸を測量したり、また択捉に行って、現地のアイヌ女性と一緒に過ごすこともなかった。やはり、アイヌ人は徳川幕府の管轄とは言っても、異文化の人だったし、そういう女性と仲良くすると、噂はすぐながれるから、その村のアイヌの男性から恨まれるやもしれなかったし、前々江戸で一回、お咎めなしという申し渡しを奉行から受けたあと、光太夫の軟禁されている住居をおとずれた際、光太夫が、長い漂流の後、江戸に幕命により軟禁されていながらも、ずっと若い女性と幸せそうに暮らしている姿を見て、あの後、一回、出発前に吉原にいっただけであった。
また、1年2ヶ月の樺太では、いつも女性がいなかった。いるとすれば、雪焼けしたたくましいニヴフ人の女性、みな、現地人の妻である。しかもアイヌの女性よりもよく言えば元気で、男よりはるかに強く、男性(夫)に家事も命令しているようであった。
そんな自分が、どうしてか、やはり、人恋しくなった。まず松前に帰ってまた、女のいる所に、と思っていたが、同時に奉行という場所でのまたちがった緊張、
そして、東韃靼まで行ってしまったことでお咎めをうけるやもしれないと思ったり、その時の高橋重賢のねぎらいの言葉でその不安が十中八九なくなりほっとした時に現れた、日本女性と思ったら実はアイヌ人だったという彼女の存在。やはりすでに日本人のくせに普通の日本人でないような感覚を自身もっていたみたいで、だから、半分日本人みたいな彼女に林蔵も気をゆるしたように、自分でも思った。