当初、題名を樺太事情、北樺太紀行といったものにする予定であったが、それでは松田伝十郎様と一緒になる。かといって第2回、樺太紀行とも書きたくなかった。彼はやはりプライドとでも言うのだろう、松田伝十郎に感謝の気持ちはあるものの、どこか比較されることも嫌だった。
俺は俺だ。俺流さ!と思った。更に、やはりためらいながらも、大陸へ渡ったことを書いた方がいいかもしれない。事実、大陸へ渡る必要がなければ、もっと早く、おそらく樺太で越冬はしても、夏には松前にもどれただろうし、やはり一年と二ヶ月もかかったんだから、やはり東韃靼にいったことを書きたいが、ただ国禁にふれたのではと思ったりして、悩んでいた。
貞助は、林蔵が何か悩んでいるのを察したようで尋ねた。いざ、やる段になって、林蔵が黙っている、これは変だと感じたようだった。
「間宮殿、なんだかお元気がないようですが、お身体の具合がわるいのですか?」
「いいえ大丈夫です。その、私としては、北樺太にも行きましたが、自分としては大陸の東韃靼に渡ったことも書きたいし、書かねばならないのですが、ただ、御国法にそむいてないかと」
「ないない!案ずることはありません」と貞助はきっぱり答えた。
「樺太のそれも北部にしても、すでに日本の領土とは言いがたい。実際、最南端の白主以外は、アイヌ人が中心じゃないですか。死んだ父も言っておりましたぞ。南の国境はともかく、北は、未開の地、ただ北のロシアが来るのであわててこちらも国境を作っている感じだと。
すでに、樺太も異国、それを幕命で調べろ、と言われ、任務を遂行された。それに、松田様と一緒に行かれた際、樺太は十中八九、島と断定されたとは言え、すぐ北に、大陸からアムールという長い河もあっては、やはりまぎらわしいことひどいわけです。これを間宮殿はきちんと、目と足で御確認された。大陸へ渡ったことは決して罪ではなく、勇気ある行為です。こっそりとロシア人とあって貿易したりしていたわけではないのですから」
林蔵は貞助のきっぱりとした回答に元気づけられ、それでは、と題名を「東韃靼地方紀行」とすることにした。
やはり、この方にお願いしてよかった、とまず林蔵は思った。筆談の能力もそうだが、やはり、きっぱりと自分の心の不安に対して、きちりと答えてくれたことがうれしかった。
もし、貞助が、「わかりませんね」と「ならばやめましょう」と言ったら、林蔵はごまかすか、それとも何か口実をもうけて、他の方に代筆してもらっていただろう。もっとも、自分にやらせてほしいと思っていたという人なだけに、意思はしっかりとしている。ありがたい。
村上様はたしかずっと一人、妻帯もしないで日本中歩きまわって実子にめぐまれなかったが、すばらしい養子をもたれて、まだ50歳にならず早くお亡くなりになったが(48歳で死去)、決して不幸ではなかったような気がした。