それから数日程、すでに林蔵が作業に入っていたある日、自分の子供の時から師である村上島之允の養子、村上貞助という人が訪ねてきた。
師の村上とは、自分は樺太に行く前に蝦夷に渡る舟を待っていた時、陸奥の青森でばったりとお会いして激励されてから、ずっと江戸や関東近辺で勤務とうかがっていた。
当然、 林蔵は江戸に着いたら、所在を調べてまっさきにあいさつをする予定であった。それにしてもどうして養子の方がと思ったら貞助は、まず言った。
「父は一昨年、間宮様が樺太に行かれている間、8月12日、もう秋でした。突然亡くなりまして・・」とのことであった。
林蔵は驚き、ついくりかえした。「おなくなりに!」
「はい、急にはやり病で倒れました」貞助は続けた。
「江戸に墓も立てました。よかったら、いつか江戸で行かれる時に、寄ってやって下さい」
林蔵は、ひといショックで、泣きつづけた。日本語のわかるアイヌ女性ノンノはこの時、まだ林蔵の世話役として、ちょうど、2人にお茶を淹れようとしていた。彼女も一緒に泣いてくれた。
ほどなくして落ち着いた林蔵は貞助と島之允の思い出話をした。貞助は、江戸でも、父の死後の整理も片づいたので、亡父の意思をつぐべく松前へ勤務を命じられたとのことであった。それこそ、貞助も以前、箱館に林蔵が択捉島で測量をしていた頃、父の家にもいたとのことであり、少し父の蝦夷での測量などの成果について記録を記す手伝いをしたことがあるとのことである。村上様は、林蔵が初めて蝦夷についてからいろいろ書いていた記録、あの記録には俺が村上様に知らせた内容もある。それらもまとめて編集していたのが、この貞助殿なら、すでに、俺たちは会わずともつながっていたのだな!と思うと、この人に頼んで一緒に探検の記録を発表でもないだろうか、と思った。自分は、どうも画才は自信があるが、書くのは独りよがりだし、自信もないし、特に幕閣にに提出するのだからやはり第3者の手で客観視してもらいたいしな、と思った。
まず、自分が現地での出来事を口述し、それを村上貞助に書いてもらおう。お互い、相手と向かいあって座り、俺が話した内容を、貞助殿がそれをうまく、かつ、要点をわかりやすく書いてまとめる。もし、駄目なら他の人に頼むつもりだったが、やはり全く測量など知らない人では、細かいところは読み手に伝わらない、日本語だが、ちょっと、いや、かなり変人の俺の言葉を常人の方に読んでもらうわけであるし、それには北方へお役目できて、寒い松前で、役人をしている貞助殿なら、と期待した。
林蔵は、樺太北部から、東韃靼へ渡った旅についていずれ幕閣に提出することなりそうですので、うまく文章にまとめて頂きたいのですが、とお願いをした。
貞助は、大変喜び、興奮気味にいった。自分にそんな仕事をお願いして頂くとは、これは大変うれしいです。いずれ間宮殿から奥地での体験話、ききたかったのですが、そんな事を自分からお願いするも恐れ多い気もして、ためらっていました。
むしろ、間宮殿からお願いして頂くとは、かたじけないことです、と大変喜び、乗り気になってくれていた。
林蔵もそう答えてくれた貞助に感謝し、それでは、と思ったが、また東韃靼まで渡ったことを残すことは大丈夫だろうか?と再び心配になった。まわりから褒められながらも、だれもやったことのない行動、言うのが怖くなった。しかし、樺太北部には渡ったわけだし、やはりきちんと言えることは言おうと思った。
口述は、貞助が役所より退出した夕方から毎日少しずつ始められた。