はるか昔、三代将軍、徳川家光の時代、長崎でキリシタンが死罪になった時、「自分はこの眼でローマをみた中浦ジュンアンである」と叫んだ人がいたとか。
そんな事まで書物で読んだことがあった。俺は処刑の前に樺太から海を渡った間宮林蔵であると言うのか。どうも俺は、楽天家でいれない。すごく悲観的だ。それではいけないと思いながらも、どうも江戸に来てから調子が悪い。
あと、やはり天文方の高橋景保とはあまり会いたくなかった。むしろ、一度会ってはげましてもらった光太夫殿や、松田伝十郎様から教えて頂いた小林一茶殿と一度会ってみたが、それはやはり、幕閣の人と会って自分の処遇が決まってからということになる。
行けば、絶対に身分の高さもあって!手柄の横取りをされる。樺太は島だと相手はすでに知っているし、自分を待っている。清書したら、いかねばならないけど、嫌だから病気になったのかもしれない。でもいつまでも行かねばかえって怒るだろう。林蔵はまた悩んで病気になってる感じであった。
そうこうしているうち、春になった。さすがに江戸は暖かくなるのが早かった。寒さも一度雪が降っただけ、寒風が吹きつけていたが、ずっと林蔵は部屋の中で寝ていたし、あまり感じなかった。
天文方の高橋景保が樺太の地図を気にしているとの知らせを松前で高橋重賢から伺い、南下して江戸に着いたもの、いざ江戸にでてから、なぜか特に催促はなかった。もっとも、樺太のこと以外に別の業務もあるだろうし、あと自分が清書するのをゆっくりと待っているにしても、いつまでも何も言われないと何か不安な気持ちになる。
幕閣の中でも、彼が生まれた頃、蝦夷地の開拓やロシアとの交易をも考えた田沼意次と、そういった北への進出より本州の農民の米の増産を中心に考えた松平定信が政敵として争っていたように、やはり樺太へ関心のある人と、そういった探検に関心のない(というか反対な)人がいて、今も争っているやもしれないとか思った。
俺の行動も、中には異国(ここでは清国も含む)を刺激したとして、怒っている人もいるのかもしれない。下役人でしかない林蔵に、江戸のそれも雲居(江戸城)のことで、想像できない別世界であった。
林蔵のところにまだ幕府や奉行から何も知らせがないのは、ずっと結論がでていないからかもしれなかった。
元気になってきて、まもなく桜の花が咲き始めると、いよいよ待ちつづけることが苦痛となった。せっかく武士になれたとは言え、何だか、町人の方が楽しそう。もう武士なんてやめたい。役人もやめたい!という気持ちになる。それで病気になったことを口実にして、もう役人をやめさせて下さいという書状と清書してもらった地図や書籍と一緒にすると、まず、松前会所に届けてもらった。
もちろん、もうやめるというには、この絶対的身分制度のある徳川時代、それなりの理由が必要である。まあ、これは簡単だ。やはり樺太にいってひどい凍傷にもなり、手の指の一部が、やはり、後遺症が少し残っているし、また、松前でも、江戸でも、着いたらほっとして身体が弱っている。それで、とても今後お役目をつづける自信もないので、恐れ入りますが、お暇を頂たいという内容であった。