翌朝、だいぶ日も登った後、ゆっくりと目が覚めると、また久しぶりに白米のご飯と、きのこの入った味噌汁の朝食を摂る。あー、うまい!御飯一粒一粒をかみしめるように食べた。
やがて、お茶を飲んで、再び松田伝十郎と話をした。大陸に渡り大河を上り、デレンなる場所まで行き、そこの場所での清国人の役所のことを林蔵が描いた数枚の絵をみた松田伝十郎は、しきりと林蔵に質問をした。
松田は、宗谷で林蔵の二回目の樺太探検を見送った後、一旦、江戸まで戻り、一回目の樺太訪問に関して報告をすますと、一時期、休養を頂き、妻子とゆっくりしていたが、年があけると2月には、再び渡海し樺太の白主へ行き、横暴な山丹人の南へのアイヌに対する問題解決任務を担当することになっていた。
松田にしても、ここで頑張れば出世もできるし、更にやはり樺太まで行き、アイヌ語も達者だったから、都合がよかった。
樺太の白主は以前、清国のデレンと似た立場で短い夏を中心にデレンよりは小規模ながら、アイヌ人のために、日本の役所が開かれていて、秋がすぎると、すぐに閉鎖して、みな南の蝦夷地へ引き上げるが、この時はちがっていた。
松田は第一回目の探検でアイヌから、樺太での山丹人の横暴をきいていたので、これについて、もっと詳しく知りたいと林蔵からの情報を得るのを実は楽しみにしていたのであった。
山丹人は、東韃靼から、錦衣、綿の織、煙管等、清国の製品を持って樺太に来て、ニヴフ人の狩った狐や貂等の毛皮と交換してきた。だが、ニヴフ人も清朝の支配下にはいり、その後、大陸に入り朝貢するようになると、山丹人も、もっと南に住むアイヌ人にそれらの製品を売ろうとしていた。
樺太南部のトンナイや、ついには最南端の白主まで山丹人がくるようになって日本人のいる会所の近くまで来て交易をするが、当時の松前藩も自分たちと蝦夷地のアイヌとの貿易には熱心ながらも、北の樺太のアイヌと山丹人との交易には見てみぬふりをしていた。表向き、松前藩はアイヌとのみ接していることになっていたからである。
ただ、そうしていると、北の山丹人たちが清国の力が後ろにあるんだ!にいうことを笠にきて、自分たちが優位にたとうとし出し、だんだんアイヌが不利益になった(もっとも、当時、松前藩も蝦夷地でアイヌ人に対して不利益な交易をしては、時にアイヌの内乱を起こしているが・・・・)。
その後、ロシアの進出もあって、この地の重要性を知った徳川幕府が樺太や蝦夷地を、松前藩から取り上げ、幕府の直接の支配下におかれると、山丹人との問題もきちんと解決して、アイヌ人は日本の保護下である、と示す必要がでていた。
山丹人はアイヌに貸しがあると言っていたが、もとより、文字を持たない彼らの言い分など証拠もないものである。
それで、山丹人に、アイヌの後ろには日本がいることを向こうに示し、藩兵まで宗谷から、派遣したとのことであった。武装した兵がいては、山丹人もきちんとせざるをえない。
ただ、山丹人の後ろにいるのが昔から大陸国家の清国ならともかく、オホーツクからずっと南下政策をとってるようなロシアの軍艦なら一大事である。もし、アイヌを助けないで放置すれば、樺太だけでなく、蝦夷地のアイヌからもうらまれる。
だから林蔵が北から帰ってきてもたらした情報は、きわめて重要であった。