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 林蔵、奥の道未知!をいく

 江戸時代の探検家、間宮林蔵を題材とした小説です。

その二

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その二

キチーに着くと、行きにお世話になった酋長のチオーと会い、歓待してもらった。林蔵が持参した道具や服をおくると、喜んで笑みを浮かべた。

 コーニたちは当初、ここからは行きと同じようにキチー湖に入って、山越えをして東韃靼の海岸にでる、いわば行きと同じ道をたどろうとしていた。いつも、彼らはそれに慣れているし、アムールは河は長くすぐに河口につかないと知っているから当然だった。しかし、今回は、林蔵にとってたぶん最初で最後のアムール河というより、この東韃靼への旅だ。それに、また山越えするのに、山にのぼるのも何かしんどい気がしていた。デレンまで気を張っていたのが、少しほっとしたあと、つかれがどっとでたのかも知れない。それで何とか、コーニにお願いしたら、幸い今はまだ川は凍る時期でもないから河口まで、舟で行こう、と言ってくれた。コーニも、山越えする気がなかったというか、いつもとちがう旅だったから、疲れがあったようである。

 あとは、川岸で野宿をくりかえし、進むだけだ。ただ、山丹人がいるかもと不安もあったが、コーニの後にいて、あまり目立たないようにしていた。

 それから3日ほど野宿をしては河でとれた魚を食べたり、デレンで得た織物の一部を、集落の部族との間で物々交換をしては進んだが、途中、サンタンコエという村落はニヴフ人の集落でコーニの言葉と同じである。以前、ここは北から海(オホーツク海)を南下して上陸してきたロシア軍が拠点とした場所だったが、清国軍に攻められ北へ撤退したらしかった。

 林蔵は、ロシアがまたいつか、ここを奪回するかもしれないという不安にかられたが、デレンで会った清国の役人の堂々した態度を思い出し、清はまだ強いから大丈夫、と思いかえした。もっとも、林蔵も、さすがにわからなかったが、この地は日本や清にとっては最北の地でもロシアにとっては最南の場所である。この50年程後、1860年には、この一帯はロシア領となっている。

 更に河口へと向かう。日数はやはりかかっていたが、なかなかつかず、8月に入って、やっとこさ、アムール河の河口についた。
 アムール河の北はやはり広いしょっぱい海で、丘から見ると、海がやはり、樺太の北へずっと続いているようだった。やはり、樺太は島だ、ここから見てもやはり、これなら完璧だと思えて、長かったけど、アムール河を下る、と言ってよかったと思った。あそこであせって山越えせずに、というか、山越えする元気もあの時は一同みながなかったから返って良かったわけで、本当に運命であった。

 翌3日、河を離れ、海岸ぞいに南へ進んだ。途中、満潮の時はいいのだが、干潮になるととたんに海が浅くなり、舟がとまった。川とちがって海は干満の差が激しい。もともとせまい海峡のしかも、海岸沿いをいけば仕方ない。それに冬は凍りつき、まぎらわしく広いアムールの河口がある。これじゃ、樺太が島か大陸か、わからんかもな!と感じた。清国人は、測量していなかったのかな、実はもうわかっているのに言わなかったのかな、もっとも彼らにとって、ここは遠いし、冬は寒いし、外敵を追い払って満足だったのかもしれない、と考えた。

 また今後は砂浜で野宿して進む。日々、海岸を野宿していると、少しづつ南へ近づいてきたようで、興奮しそうだ。夜空は、月は満月になっていて、林蔵も粟酒を少しのんで、波音をきくと、昔、寺子屋で習った月の歌をまた思い出した。
 
 "あかあかや、あかあかあかや、あかあかや、あかあかあかや、あかあかや月
 
 月がきれいだな、次に満月を見るときは、日本から見たい。そう思った林蔵はまた、酔って眠った。
 
 その翌朝、2艘の舟は、満潮の中、さらに南へと進んだ。
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作者:福田純也
福田純也
性別:男性
男性

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