第五章 樺太、南へ南へ
コーニたちと共に、ついにデレンを離れる時がきた。
林蔵は、役人の宿所である舟に行くと、ひざまづいて別れの挨拶をした。役人たちは別れを惜しみ、粟酒の入った壷を餞別として贈ってくれ、更に我らよりも身分の高い上流役人からだ、と言って簡単な書状も渡してくれた。
林蔵が河岸に引き返すと、コーニは舟を出してくれた。ゆっくりと舟は下流へと進む。ここからまたまず、キチーまでは舟旅だな、と思うと、少しのんびりした気持ちになったが、デレンの街が見えなくなると、またしばらくは、何もないただ自然だけの大地、デレンから出て緑が生い茂った中を舟は進んだ。舟の中でコーニたちと離れ、一人になった林蔵は清国役人からの書状を読んだ。
昔、唐の詩人、李白の友人に日本人がいたという。唐に留学して長く唐の皇帝に仕えていたが、帰国することになって惜別の詩を詠んだが、残念ながら自分たちはその詩を忘れて書けず、と言う書状だった。ただ、無事帰国して、日本でも月を見たら、我等を思い出して欲しいといった書面で、林蔵は胸が熱くなった。
清国人は、自分たちのまわりの国で、東の日本だけが朝貢していないということでやはり、あまり機嫌はよくなかったようにもかんじられたが、その一方、林蔵が漢文を書き、更に李白の詩を知っていたことに厚意と言うか、友情のようなものを感じたようであった。もっとも、もっと長くいれば、互い文化も違うし、必ずしもうまくいくとは限らないが、直接筆談できたし、情報を得ることもでき、気持ちがいいものであった。
ただ長く仕えた日本人がはるか昔、いたとは、古代の歴史には、さすがに疎いが、たしか、万葉集にもそんな人が和歌を歌っていたな、えーと誰だっけ?、と昔、江戸で測量の師匠である村上島之允から、唐の時代の唐土の話を聞いたことなどを懸命に思い出しているうち、あ、阿倍仲麻呂だ、と思い出した。阿部仲麻呂は李白、王維といった漢詩人とも交流していて、遣唐使で帰国しようとした際に惜別の漢詩を李白がよんでいる。
それで帰国しようとした舟が難破して、越南(ベトナム)に漂着し、やっとのことで、また陸つづきの唐(この林蔵の頃は清、今の中国)にもどり、帰国することもかならず、また唐の政府に仕えかなり出世した人であった。都の長安で詠んだ歌があったな、なんていったかな。忘れてしまった。ただ、仲麻呂は結局、日本に戻れなかったが、俺は必ず帰らないといけない!と心に誓った。
それにしても、勇気を持って、樺太から東韃靼に渡ってよかった、と思った。アイヌのいる蝦夷地や樺太南部に比べると、大陸の山丹人が横暴であったが、ニヴフ人と同様清国から朝貢の礼として、ヤーシンタ(カーシンタ)という役職名をもらっていて、虎の威を借りる狐のような存在のようだ、と思った。
アイヌは、日本に救いを求め、やがて蝦夷の松前藩は、樺太の最南端の白主に進出し、会所を設けた。この後、樺太南部に進出し、アイヌの村落の酋長に2名、小使いという役職名をあたえ、ついに保護下に置いている。もっとも、このことを知っている日本人は、ほとんどいないわけで、日本ももっと北の開拓をしないといかん、と感じていた。米が、稲作のみが国の基盤か否か、わからないけど、稲作が不適用ながらもっと有効利用しないと、とも感じる。ただ、ロシアの勢力は、まだ清国があるから樺太まで及んでいないが、清国は以前、日本でも、大権言様(徳川家康)が江戸に幕府を開いた頃は、まだ明国だったわけで、それ以前も何回も王朝が変わっているし、もし清が弱体化して清国内部が戦乱になれば、大陸でのことであるし、どうなるかわからない。
ただ、この事はまだ書かなくてもいいだろうと思った。余計なことを言って、何か言われるのは、択捉島のシャナ会所での時もそうだが、下役人のくせに、と必ずたたかれる。今はまだ大丈夫、ということで私情は入れず、報告することにした。
デレンの柵は全くみえなくなり、だいぶ経ったが、広い河、これからもっと広くなる。河幅もすでにざっと2里(8km)はあるだろうし、河口ならその倍の4里はありそうだ。樺太からアムール河の河口は霧で見えにくかったがかなりあるだろう。これだと北のロシアのシベリアから樺太に入ろうとすると、まちがって、このアムール河を上がることもあるな、と思ったりした。
(余談ながら、初めて世界一周したイスパニアのマゼランの率いた船団が南米のラプラス川の河口を太平洋へ抜ける海峡だと思って、そのまま上流に上った。だが、いつまでも汲んだ水が、淡水なのでやっと河だとわかってまた下流へ向け、南米を再びずっと南へ向かい、やっと南米の南で冬篭りして、部下の反乱もある中、太平洋にわたるマゼラン海峡を発見している)
ある程度進み夜になるとまた野宿をする。そしてまた、朝になって舟をまた下流へ進めると、キチーに着いた。