5月30日、マヌアイの集落まで引き返した林蔵たちは、ここで数日休み、今までの探検の記録や持ってきた食糧等の荷物を整理すると、樺太を横断して西海岸へ向かうことになった。最上徳内と樺太の南で別れてから、すでに40日経ち、樺太も夏になろうとしていた。何か書き留めたり、読んだりするのは日本語だが、普段の会話は同行のアイヌ人がいるからずっとアイヌ語だけであり、このころは頭の中で考えるのも半ばアイヌ語になっていたし、月代も伸びていたので、日本の役人の服を着なければ俺もアイヌ人と思われるかもな、と一人苦笑した。同行のアイヌ人も詳しい道はわからないので、羅針盤で西の位置を調べたり、集落に出るたび、そこに住むアイヌ人にアイヌ語と身振り手振りを交えて、ひたすら進んだ。
途中、山もあって、暑い中、野宿を繰り返し、重い荷物を3人で運び続け、さすがの林蔵も同行のアイヌ人もひどい疲れで参りそうになったら、数日後、やっと川に出た。 アイヌ人に聞くと、どうやら、クシュンナイ川という川で、西海岸のクシュンナイという集落に流れているとのことであった。
ああ、これで助かった。クシュンナイ川でやっと海に出れる。一同皆ほっとして、川で水浴びをして涼んだ後、また服を着て舟に乗ると懸命にこいで、下流に向かった。途中、追い風が吹き、川の流れにうまく乗れたようで、舟は一気に進んだ。やっと河口の岸に着くと、アイヌ人の集落があった。林蔵は松田さんの船はどのあたりにいるのだろう?、と、すぐに気になり、現地の人に日本人の乗っていた船は泊まらなかったか、と尋ねた。岸に住んでいたアイヌ人たちによると、すでに、半月前ごろに船で通過したとのことであった。
松田の乗った図今船は、林蔵の舟より大きく、白主で越冬経験のある和人とアイヌ人の混血の方四郎や同行のアイヌ人も多く、航海には困らない。
これならすぐにでも樺太が島か、それとも陸続きの半島か、松田の方で先に解ってしまうかもしれない!!!
何かすごく悔しい。松田さん、いくら10年年上だからって、良いことばかりだなァ、と思ったりする。でも俺はそもそも択捉島のシャナ会所での事件で、罪人になる可能性もあったわけで、あまり思うと罰あたりだし仕方ないか、とも思う。それに、同行のアイヌ人も疲れている。俺も河口を下ってクタクタだ。樺太の内陸横断記でも書いて、俺は俺で幕府に提出しようかな。そうすれば、それはそれできっと役に立つだろうと前向きに考えようと努め、酒を飲んだ。
アイヌが、海岸で新鮮な魚をたくさん取ったので、久しぶりにおいしい焼き魚で、酒を一杯やると、今までの疲労と安堵感もあって、ゆっくりと寝た。
翌朝、気を取り直して西海岸を北上する。数日後、アイヌの家がある地を選んで船を寄せ、モシリアという所まで来た。松田はもっと北へ行ったに違いない。アイヌ人の家があったので聞いてみると、図今船をおいて、小船2艘に乗り換えて北上したとのことであった。
どうやらそこから北へ向かうには大きめの図今船は無理と、地元のアイヌから忠告を受けたようであった。
また、ここには20年ほど昔、大きなロシア人が数名来たが、仲間同士で喧嘩になり、さらに地元の現地人との喧嘩等で殺されて以来、全くロシア人はいないし、それらしき船も見たことがないとのことであった。ならば、やはり樺太は島でなく半島なのかもしれんな、と林蔵は思った。
モシリアを出て、更に北へ、アイヌを励ましながら進み、また、海岸で野宿を繰り返し進む。西海岸は松田伝十郎が測量してるだろうし、もしまだなら帰路、自分がやる。今はとにかく進むことだけを気にしていれば、と思い北へ北へと船を進めていった。
クシュンナイを出て半月、6月20日にノテトという所まで行くと、海上に2艘の舟が見えた。ついに松田伝十郎と再会(合流)することができた。
久しぶりの日本人。林蔵は共に無事に再会できてやはりうれしくなった。すでに島か半島か調べているだろうけどやはり、互い、未開の土地まで来ての再開。うれしかった。
3艘の舟は一緒にノテトの浜に向かって進んだ。
ノテトは、南端の白主のような場所で20軒以上の小屋があり、久しぶりに少し大きな集落であった。やはり北部にいるニヴフ人の村で、オロッコ人も住んでいた。