4月20日(現代の6月上旬)、宗谷海峡を渡海してから1週間が過ぎた。
いよいよここから先は全く日本人の住まない土地である。西海岸の松田伝十郎様は、今頃どの辺にいるのかな、と思いながら、舟に乗り、後の測量に慣れる意味も含めて浅瀬を陸地に沿って海岸線の作図をしていた。
陸地での作図でないから、正確とは言えないが、羅針盤を使って方向を確認し、あとは蝦夷での測量で培った体験からくる勘で、距離も目測で記した。
やがて中知床岬の付け根にたどり着いた。白主からすでに、22里(約90km)余くらいだった。
最上が言ってくれたこともあるし、陸地を横断することにした。同行のアイヌたちが幸い横断路を知っていたので、彼らに感謝して煙草を与えると皆で一服した。そして岬の付け根からいよいよ3人で横断である。
荷物を乗せた船を引き、久すら進むと途中、川が流れていた。林蔵はほっとした表情で、アイヌ人たちと野宿を始めた。樺太にも蝦夷のようにヒグマがいないか心配になったが、アイヌによると、この辺りで熊を一度も見たことがないとのことで、安心して酒を飲みぐっすりと眠った。
翌朝、川を舟で進むと、沼に出た。また、沼を進んで陸に上がり、また歩くとしばらくしてまた別の沼があり、幸いにして、川や沼が多いようでまた別の川があり、野宿した。
その翌朝、舟で進むと大きな湖(富内トンナイチァ湖)にでた。湖を北の方向に進むと、樺太東海岸の富内というアイヌ人の集落に着いた。
富内で数日間留まったが、海は予想以上に荒れていた。内心、松田伝十郎や万四郎が向かった西海岸に自分も早く行きたくてたまらない気持もないかと言えば嘘である。択捉島のシャナでもそうだったけど、俺って何か貧乏くじ引かされているなと思う。だが、まだ始まったばかりでもう引き返すのも情けないし、今はしょうがないと思って、アイヌ人の小屋で波が静まるのをじっと待った。
ただ、東海岸だと、ロシア艦がそれこそ、北のオホーツクから、千島に向かう時など、もしかして海が荒れていそうだから、途中、樺太の東海岸に沿ってくるかもしれない。自分たちが今いる樺太の東海岸ならロシア人が上陸して遭遇するかもしれない。そう思うと、やはり不安の気持ちになっていく。林蔵は、月代も伸びてきたし役人の服でなく、アイヌ人の服に着替えて進むことにした。
再び波が静まると舟で北上し、アイヌの村落のある海岸に着くことを繰り返しながら、やっとのことで5月17日には北知床岬の付け根にある多来加(たらいか)という湖の湖畔に着いた。多来加の前まではアイヌ人の集落でアイヌ語が通じたが、ここはオロッコ人という別の民族が住んでいて、アイヌ語は通じなくなっていた。
オロッコの言葉がわかるアイヌ人に、アイヌ語に通訳してもらい何とか身振り手振りして意思の疎通をした。どうも樺太というのは、アイヌ人がいて、ニヴフ人がいて、オロッコ人がいるようで、更に、以前、清国人の役人も来たとのことである。
清国人はともかく、それ以外の住民は、文字もないから当然、読み書きはできないが独自の言葉を持っていて、耳がいいのか、文字を知らなくても外国語の習得をするのには感心した。
日本も、蝦夷の南の松前から薩摩まで、江戸後期まだ各藩に分かれて方言は違うが、街道の発達、参勤交代でかなり江戸を中心として日本語としての共通語のようなものができている。それに寺子屋が日本中にあり、多くの者が平仮名か、カタカナくらいなら知っている。それに比べると樺太は道路もなく、舟での交流こそ多少あるようだが、いろんな部族が各言語を使い、当然、読み書きができないのに必要に応じて、耳で聞いて自然と身につけているようであった。
(実際、面積は樺太は7万平方メートル、蝦夷もほぼ一緒だった)
林蔵は、アイヌ語の通じない地域まで来たことだし、それならもっと北上を計画し、松田様よりも先に樺太の最北端に着きたいと思った。近道のため陸路を選び海岸に出ようと進み、いくつかの集落を泊まりながらすすみ、がんばってシャックコタンという所に着いた。ただ、そこからはひどく早い波が押し寄せ、とても最北端までは行けそうにないし、集落にいた原住民のオロッコ人も、ここからは誰も北上したことはない、と言った。
松田伝十郎と打ち合わせした通り、東海岸を北に進むのが無理なら途中、幅の狭い個所を選び、西海岸に行くことになっていた。ここまで来たのに、と残念な気もしたが、仕方なかった。
よし、東海岸で一番北上した日本人は俺だ。それをきちんと残そう。それでもやることはやった。ここから東海岸を無理に北上して、ロシア船に遭遇なんてことになるとまずいしな、林蔵は気持ちを切り替えた。西海岸へ早く行って、樺太がやはり最近の異人の言うとおり半島なのか、島なのか、それが気になるしな。松田様にもその手柄、渡してたまるものか、という対抗心も急にわいてきて、まずはここまで来たという証拠の標柱を打ち立てた。すでに白主から百里(約400km)を超えていた。そう思うとすぐにでもシャックコタンを去ろうと思うが、そこから横断するにもまともな道も川もなかった。
実は、シャックコタンに行く途中、その前にあったアイヌ人の集落のマヌアイという所で、ここが樺太を横断して西海岸に出るのに一番近い場所ということを同行のアイヌ人からも聞いていた。当初は、そこも波がひどく荒れているだろうし、ならば東海岸をあきらめ、さっさと横断して西海岸にでよう、と期待していた。
ところが、そこでは何故か全く波が荒れていなかったし、ここまでもなんだかんだ言ってうまく進んだし、これなら一気に東海岸最北端までいけるかも、と、つい欲を出して進んでしまったのだった。自然は本当に気まぐれだ。そして、人は自然の前ではやはり勝てない。マヌアイまででやめおけばよかった。欲をだすんじゃなかった、くそ!と、思いながらも、林蔵たち三人はマヌアイまで意外と距離があったが、なんとかがんばって引き返すのであった。