その頃、欧州では、フランスのナポレオンと周辺諸国との間でたびたび戦争と講和が繰り返され、幕府にとっては危険な存在ともいえたロシアも、長崎で貿易していたオランダも実際は、ナポレオンとの戦争にかかわっていた時期であった。また、フランスとロシアの間の内陸国家オーストリアの首都ウィーンで活動していた音楽家ベートーベンが、大河ドナウ川で摂れた魚で好物の鮭や鱒の料理を食べながら(運命)や(田園)と言った、後に日本でも広く知られる有名な曲を作曲して初演した時期でもある。そんな中、はるか東だがロシアの隣国でもある日本の蝦夷地北端の宗谷(それでも北緯48度のウィーンより南の北緯42度である)では、二人の幕臣が未知の場所へと出発となり、ゆっくりと桜並木の道を歩き港にむかった。
会所の役人や警備の会津藩兵、それに宗谷の近辺で暮らす多くのアイヌ人がみな見送りに港に集った。松田も林蔵も、見送りの人の多さに驚きながらも、いよいよ出発だと、思った。松田は「死は覚悟の上、奥地で異国人に捕まったり、殺されるかもしれません。年を越して帰らないなら、今日の、この出航の日を私の命日として下さい」と厳しい表情になって言った。
林蔵も続いて言った「成功するまでは帰らないつもりです。アイヌ人か、樺太の北の原住民と協力して、彼らとやりとげたいと思います。択捉島で、一度は捨てようとした命、それがせっかくご赦免頂いた恩に報いるためにも、精一杯活動する所存です」と、意外と落ち着いた表情になって言った。
図合船に荷物が載せられ、同行のアイヌたちが船をこぎ始める。やがて、帆が挙げられて、船は風と静かな波に乗り、宗谷から遠ざかって行った。銃もなく、刀のみの林蔵たちである。出発前にはあれほど気合が入っていたのに、未知の場所で、俺たちにどんな(運命)が待ち受けているのか!、今度は少しずつ恐怖の方が心を支配した。
逆に松田は、自分よりずっと年上であるだけであってか、落ち着いているように見えた。林蔵は、船に乗りながら、かつて大黒屋光太夫が伊勢から江戸に向かう船が8ヶ月難破して北の果ての島まで流された時の気持ちが少しわかったような気がしたが、それを思うと自分の弱さ、情けなさをまた感じ、まだまだ始まったばかり落ち着け!、と自分に向かって心の中で言った。
幸い船は順調に進み、最南端の登呂岬で,その近くの白主の港に着いた。林蔵にとってついに初めての樺太である。白主には、やはり会所の役人がいて、アイヌの家も数戸並んでいたが、蝦夷地のアイヌはまだ、自分たち和人の影響で農業もしていたが、樺太では完全な狩猟民族で、どこにも(田園風景)といったものは見当たらなかった。
早速、駐在している役人たちに挨拶をすると、アイヌ語も交えて、手伝いに来ていたアイヌ人たちにも酒をふるまい、彼らから北部の情報を得ようとした。
白主には、蝦夷のアイヌだけでなく、樺太北部のニヴフ人がしばしば交易に来ていた。ニブフ人のいる地域は清国の領土か、または清国の勢力が及んでいるらしく、清国製の絹の布、陶器などを持ってきて、白主に住むアイヌ人の熊や鹿の毛皮と交換する。
また、ニヴフ人とは別に、山丹人という狩猟民族も北樺太の対岸のアムール河の下流域の東韃靼の方にいるが、彼らも時々樺太に来ては南に来ることもあり、アイヌ人を脅すようで、地元のアイヌは怖がっていた。だが、林蔵たちが北部に行くとなれば、当然、出くわすことになる。
ニヴフ人や山丹人はアイヌ人のように原住民で言語に文字もない。清国人の役人もいれば筆談できるかもしれないが、もし原住民だけなら当然、漢字も読めるわけでない。そうなったら彼らの言葉のわかるアイヌ人に入ってもらいアイヌ語で何とか交渉するしかない、と松田と語り合った。
樺太北部の地理についての情報は、残念ながら得られなかった。やはり実地に行くしかない。こういう時、何回も思い出すのが大黒屋光太夫のことであった。彼ら一行が漂着した時、ロシア人もいたが、やはりそこにも原住民もいたわけで、最初は身振り手振りで意思の疎通をし、それから、ロシア人も交えて暮らしながら、相手の言葉を忘れないようにカタカナで手帳に書きとめ少しずつ言葉を習得していき、カムチャツカに渡る頃にはロシアのキリル文字まで覚えたという。
林蔵は、江戸で光太夫と会ったときのことを思い出し、行けば何とかなるさ、と思うよう努めた。
樺太が島か半島かが分かればいいのだから、目的は単純であるとも言えた。ただ陸続きの半島なら、大陸から流れるアムール河の河口がどこで、清国の勢力範囲はどのあたりまであるかを調べねばならない。
当初、樺太が島か半島かを調べるのが目的であるし、樺太の西海岸を北上するつもりであったが、上司である松田から、東西両海岸に分かれて北上するように言われ、松田は自分が西海岸に行くと主張した。
林蔵は、手柄を松田に独り占めされるような気がしたが、松田はこう言った。
「できるだけ測量をする必要がある。東海岸は日本の奥州同様、海が荒れているかもしれないが、もしこれ以上北上が無理だとわかったら、無理して進まず、陸地を横断して西海岸に出ればいい。」と言ってくれたので、おとなしく従うことにした。
以前、東海岸に行ったことのあるアイヌ人2人を案内役として干魚や米など食料、酒と煙草を用意し、アイヌ人が使う小舟に乗り、東海岸を北上していった。
船を北上して夜は岸で野宿をするつもりと思ったが、早くも次の日には集落(九春古円という場所でここから東に出っ張った中知床岬という岬があった)に着いた。そこで、何と宗谷から出張してきた探検家で調査役の最上徳内に会った。最上は蝦夷や択捉、ウルップ島まで、林蔵よりずっと先に探検してきた方で、林蔵自身、この人の編集したメモのような小さなアイヌ語辞典をいつも携帯していた。
最上は、林蔵がアイヌの格好ではなく日本の役人の身なりなので不快そうな表情を浮かべたが、ニヴフ人を威圧するためには役人の格好の方が威厳がありますし、アイヌの服も持参はしていますから、と弁明すると、最上も納得してくれたようであった。
中知床岬は東に突き出ている。ここを回るか、それとも岬の付け根の陸地を横切るか少し迷ったので最上に聞いた。当初から横切るつもりでもあったが、大先輩から反対されれば海岸を行かないといけない。
「中知床岬の辺りはすでに測量されているが、出っ張っているから海岸に沿って行くと遠回りになるな。ここは測量の必要もないし、思い切って陸地を横切って東海岸に出た方がいいだろう。ただ、そこから先は私にもわかない。夏とはいえ、樺太だから朝晩は特に冷えることもあるし、大変だが、頑張れよ」と、最上が言ってくれたのに、林蔵は頭を下げ一礼した。