林蔵は、万四郎の助言を聞き、以前から松前の近くの集落で親しくしていたアイヌ人からもらった防寒用のコンチ(頭巾)や夜具、更に、漢方薬、伊能忠敬からもらった羅針盤、地図数枚、測量道具や筆と野帳なども持参した。
林蔵と万四郎は、奉行所の図合船に乗って松前の港を出た。船の帆は風をはらんで北上すると、蝦夷地で一番長い石狩川の河口についた。以前も蝦夷地を一周しているが、今回は樺太の調査に行く。そのせいか、15町(1.6キロ)もある河口の広さも気になっていた。北樺太の北を大陸から流れるアムール川の河口はもっと広いのだろうか。河口が広ければ広いほど、海峡との区別がつきにくいなぁ!と林蔵は思った。それから更に数日程、ゆっくりと北上すると、富士山のような形の整った山のそびえる島が見えた。利尻島である。船は一時、ここに停まったので、林蔵も下船して山を見上げた。そして、以前、江戸で見た富士山を思い出し、思わず手を合わせた。
それから島内の港近くの小屋で泊まって、翌日、船に乗り、夕方にはノシャップ岬をかわし宗谷に着いた。
下船後、宗谷の会所へ行き、責任者の調役、荒井平兵衛に着任の挨拶をした。挨拶のあと、荒井はすぐに調査の同行者、松田伝十郎に引き合わせてくれた。
いきなり松田がアイヌ語で話しかけてきたので、林蔵もアイヌ語で返答した。松田伝十郎が少し笑ったので、林蔵も緊張が解れ、少し頬を緩めた。
宗谷も、択捉島のように緊迫した空気であった。昨年5月、航海中に見た利尻島にもロシアが襲来、アイヌの舟を焼き、食料を奪って去った。
その折に、ロシア艦の艦長は、来年再び宗谷に来て通行の許可を求めるが、もし拒絶するようなら大軍を連れて攻略すると言った内容を、オランダ語と平仮名だけの簡単な和文で書かれた書面で伝えてきた。
ロシアの大軍と書かれているが、択捉島でも上陸したのはせいぜい数十人、今後増えたとしても、こんな極東の島国までいきなり何百人も来るとは考えられなかった。それで、会津藩など奥州の藩から800名程準備して、警備にあたらせることになっていた。
そんな中で、林蔵は松田伝十郎と共に樺太行きの準備に取りかかった。松田の話によると、高橋重賢から樺太行きの命令書を受けた際、食料や船に関しての内容もあったという。大船では行動が制限されるので、小舟を使用すること、炊くために水を必要とする米は少量にして焼くだけで食べれる干し魚を携えろとのことであった。魚もアイヌが食べることで病気にならない事は林蔵もすでに体験ずみ!で分かっていたが、このことは松前奉行でも直轄になり積極的に教育されているようでうれしく思った。そして、今後、特に冬に警備に当たる武士にもどんどん広めていかなければ、という気持ちになった。海に面していない内陸の藩の武士には、魚(特に海の魚)は贅沢なおかずだが、蝦夷ではよく鮭など魚介類が取れるし、寒い分、冬は保存が効く、新鮮な魚が食えるから、蝦夷は天国だと、思ってもらえれば、もっと人が増える、と、期待もした。
やがて宗谷にも遅い春が来た。昔からあったのか、宗谷にも港近くの沿道で蝦夷桜の木が十数本立ち、小規模ながら美しい花を咲かせていた。
宗谷、米の獲れない蝦夷地の北端の地ながら桜が咲くのを見て、林蔵は「蝦夷も日本だ。米は無理でも芋か何か、滋養のある作物をどんどん植えて、ここは鮭と芋の宝になるかもしれない。
そして北に来るのが嫌な武士が多いなら、それこそ、江戸の無宿者や、いつか日本各地の小作農民や貧民を呼び、開拓させるようになればいい。俺はそのためにも樺太を調べに行くんだ!、と思った。
また、樺太に着ていく服装だが、これは当初、ロシア人と戦った日本人の着物よりアイヌ人の格好の方が良いかと検討されたが、ロシア人がいないなら、樺太の原住民に対しては、こちらも役人である方が威厳を保てるという考えも出て、いざという時に大小の刀と役人の着物の準備もするということになった。
文化5年4月13日(今の暦で1808年5月の下旬)、桜の木は宗谷でもそろそろ葉緑になる頃、いよいよ近くけど、遠く秘境の樺太へ出行となった。幸い天候は良く、これならすぐに樺太の南端の白主に行ける。
松田伝十郎、数え歳で40歳(実年齢だと38か39歳)、江戸に妻子を残しての出航、林蔵は同じく数え歳29歳(実年齢だと27か28歳、誕生日はわからないので、どちらかは不明)、独身、気楽な立場だったとはいえ、やはり未知の場所へ行くことで、よし!と日の出のずっと前に目が覚めると、異常なくらいに気合が入った。