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 林蔵、奥の道未知!をいく

 江戸時代の探検家、間宮林蔵を題材とした小説です。

その三

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その三

晴れて自由の身となった林蔵は、収容されていた松前会所をでて旅籠に一人泊まると、江戸の南町奉行所でも吟味の後に樺太へ行く支度をせよ、と言う命令が出ていたこともあって、年末年始、少し休んだあと、年明け早々支度にかかることとなった。
 
 彼はまず測量の大家である伊能忠敬の住んでいる屋敷を訪ねた。伊能の元には、すでに林蔵との面会の依頼が松前の奉行から届いていて、年末に江戸入りしてから、伊能も気にかけてくれたようだった。
会向するや、林蔵の手を握りねぎらった。「オランダ人はこうやって会う時、握手をするのですよ」と優しく微笑んだ。

「私は、何でも西洋が良いとは思いませんが、長崎に測量でいた時、これはいい習慣だと思いました。間宮殿とは気さくに話をしたかったでな」と続けた。

 林蔵は静かに一礼した。

「まぁ、そう固くならず、お入り下さい。択捉島までせっかく道路を開設しようとしながら難儀をされましたな」
 忠敬は、少し気の毒な顔をしたが、やがて笑顔になって続けた。
「ただ、こうやってお咎めなしで許されて何より。幕閣は間宮殿に大変、期待されている。ただ、択捉まで行かれた間宮殿にこのような事を申し上げるのは釈迦に説法であるが、樺太も危険かもしれぬし、間違いなく蝦夷よりも寒冷であろう。お気をつけなされ。」と言った。

「はい。すでに今回の択捉で死を覚悟しておりました。ロシア人に殺されるか、今度の逃亡で死罪になることも実は覚悟の上でした。今、私は天命に従ってやることをやるだけです」と林蔵は、しっかりとした口調で答えた。
 
「うむ、良い心がけじゃ。アイヌ語もかなり得意とのことだし、樺太でもうまく現地のアイヌ人と交流すれば、きっとうまくいくであろう。ところで樺太へはお一人で参られるのかな」忠敬は尋ねた。

「いいえ、実は、私よりも択捉や蝦夷の調査を長くした方で、松田伝十郎様と一緒にと言いますか、この方の従者として行かせて頂くことになっております、それにアイヌ人が何人か、道案内もしてくれるようです」

「松田伝十郎様か、私も存じていますぞ!。それは良いことです。それにしても、幕府の方はすでに間宮殿の吟味とは別に、ずっと以前から樺太の、特に北の調査を思案していたかもしれませんな。やはりロシアが気になるのでしょうなぁ」と忠敬は言った。
 
 その後、林蔵は、まだ行ったことのない上方(京や大坂のこと)や九州など西国での測量の話しをうかがったり、長崎のことを尋ねた。長崎には、清国の唐人町やオランダ人の出島もあり、やはり、舶来のモノはここから入る。
林蔵は、忠敬と長話をした後で、羅針盤のことが気になった。彼は村上島之允から測量を厳しく習っていたが、自分の使っていた羅針盤が旧型で古いような気がしていた。
 その事を伝えると忠敬は、「分かっておりますとも。すでにこの事も松前奉行所の高橋重賢様からも、書状で依頼がありました。これを差し上げましょう」
と言うと、新しい羅針盤を林蔵に手渡した。林蔵は深くお辞儀をして厚く礼を述べると、またオランダ流に手を握って忠敬と別れた。


 翌日、林蔵は今度は、江戸の小石川薬草園で軟禁されている元ロシア漂流民の大黒屋光太夫を訪ねた。軟禁といってもいつも役人に囲まれているわけでもなかったが、ロシアの情報がみだらに広がることを恐れた幕府の処置であった。
 光太夫は、すでに日本に戻って15年経っていて、もう50歳を過ぎていたが、40歳くらいにしか見えない人で、元気そうであった。そして、当然のことだが、月代も剃り着物を着ていて、すっかり日本人の生活に戻っていた。ただ、「帰国直後の江戸の夏の猛暑には堪えましたぞ」と笑った。「今でも、ロシアにいた長くいたせいか、冬の方がずっと楽ですな」と続けた。

 それから彼にとって同郷で、林蔵にとっての師である村上島之允のことについて話をした。村上殿も自分も江戸では、会った際、お互い伊勢のなまり丸出しで話をしましたが、日本は、こんなに小さいのに各地で方言が違いますな、という話になった。
 林蔵も江戸から近い下総(今の千葉県北部及び茨城県の南部取手市の辺り)の出身ながら、江戸の言葉とは違う言葉だったことを感じた。されど、江戸は、100万も人が住んでいて、半分は武士で、徳川幕府の直属の旗本、御家人のほか、蝦夷地から南九州の薩摩までの武士が、大名の参勤交代で江戸につめていた。
 そんなこともあって、江戸では、御国言葉とは別に江戸言葉なるものが出来上がっていた。徳川将軍家の考えた参勤交代制度は、単に大名同士の戦や反乱を抑えるためのものではなく、各地の交流を盛んにしている、と林蔵は改めて感じた。
 
 そして、その各地の知識が集まることで、江戸や上方を中心に日本が発達していくということを感じた。測量をしていた知識人もみな、江戸で知り合ったが、みな各地から集まっていた。
ならばいつか蝦夷地の最南端の松前とは別に、アイヌ人の首長で一国の藩をつくり、江戸に参勤交代してもらうといいかもしれない。そんなことをおぼろげながらも考えたりもした。
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作者:福田純也
福田純也
性別:男性
男性

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