もっともその後を読むと本人は今、落ち着いていますし、自分は今も遅れた春、正におらが春を取り戻したいから2人目の奥様を近々もらうつもり、句も2万句よんだことですし、前を向きます、といった内容のことが記されていて、林蔵はほっとした。いつまでも泣いていても時は止まらない!あの人もがんばっているし、俺も進むのみと思い、浦から浦へと進む。
猟師や村を運ぶ者をみつけて、さりげなく聞きだすと、ここ最近、急に捕鯨船は来ているようで、多くの者が見かけたといっていた。
また薩摩でも異国船が事件をおこしていた。西南諸島の宝島でのことであったが、異国人たちは食料に牛をゆずってほしいと頼んだが、牛は日本人にとって黒砂糖の耕作や、砂糖汁をしぼる労役に使う労働力なのでムリなことである。
その後イギリス人がまたやって来て、酒や、パン、金銀の硬貨、時計等をだし、交換で牛をゆずってくれと身ぶりをまじえて言った。
薩摩藩士が、手まねで、どこの舟か調べようとして、ナガサキ、オランダといってみると、地図を砂浜にかき、オランダ近くの島をつくってエンゲレスといったので、イギリス船であり、また手まねで本船にのっているのは、70人ということも知った。
牛はどうしても渡せぬと断り、かわりに米や芋、野菜を与えたが、その後、突然、逆恨みしたイギリス人が銃を乱射して牛3頭を強奪するや、一気に解体してもち運ぼうとした。藩所から島に来ていた役人も応戦して、一人を射殺したとのことであった。
イギリス船はその後、報復することなく去ったが、この知らせは鹿児島から長崎奉行所を経由して江戸に伝わった。
ロシアばかりでなかった!、やはり光太夫殿が以前言ってくれた通りだ。測量をしなくても日本の海岸全部、いずれ廻る日がくるかもしれんな、と思って江戸に戻った。
家にもどると、また故郷からの書状がきた。ついに母が亡くなったとの知らせであった。
村の母を世話してくれた飯沼甚兵衛からの手紙には、彼が房州の旅をしていた頃、ひっそりと母が死亡し、亡父と同じ菩提寺の専称寺に葬ったとのことであった。
父の死の時も、母の死の時も、臨終に立ち会えなかった。いずれも、大事な任務の旅にでていて仕方なかったとは言うも、なんだか申しわけないような気がした。
翌朝、まだ日が暗いうちに家をでて、実家の村へ向かった。寺に行くと、そのまま母の墓の前にひざまついた。
涙が止まらない、あー、俺は親不幸者だ、と嘆きたくなった。一人っ子なのに俺は家を出て、人一倍がんばって、今や北方への探検を果たしたが、孫の顔もみせれず親不孝だと思った。
しばらく墓の前に垂れていると、葬儀をしてくれた飯沼甚兵衛が後ろからやってきて、林蔵の姿をみつめると声をかけた。
「林蔵殿、ついに一人になったな」甚兵衛は静かにいった。
「母は突然亡くなったのでしょうか」 林蔵は涙ぐんで尋ねた。
「うむ、朝、うちの女中がいつものように訪ねたら、すでに冷たく息たえていたそうだ。死因はわからないが、前日まで元気だったのに残念なことだ」
「苦しんでいなかったのなら良いのですが」と林蔵は言った。
「私にもはっきりとはわからないが、そのようなことはなかったと思う。死顔は安らかだったぞ。林蔵殿が最近よく忙しい中帰ってくれてうれしがっていたしな。江戸から立派な役人となって帰ってきた自慢の息子だと言っていたな」と甚兵衛も涙ぐんでいった。
あー、ついにこれで俺も一人、もうここにきても誰もいない、いやちがう、ここには両親も眠り、そして俺もどこで倒れても俺もここで眠る、また、必ず墓参りをしよう!と思って、甚兵衛と別れ、寺に回向料を払うと、再び江戸へ向かった。