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 林蔵、奥の道未知!をいく

 江戸時代の探検家、間宮林蔵を題材とした小説です。

その二

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その二

何でも、昨年、20年以上若い地元の女性を妻にしたとのことであり、毎日毎日、日記を記しているが、今まで全くの日照りだったのに、今は毎日めぐみの雨で、逆にまいっていると書いてあった。

 毎日、耕作して、若い妻との生活を楽しむ、さらに、黄精を掘るとかいてあって、イカリソウが男としての力をとりもどします、と書いてあって、イカリソウの束まで送ってあったので、林蔵はおもわず苦笑した。

 あの人も、今まで俳句や、あとはっきりとは最後まで隠密だとは言わなかったが、間違いなく幕府の命令で西国へ旅していたが、やっと春がきたようだな。しかも、五十すぎの男とは思えない程、わかい。俺も寒い中、きたえた身体、何とか維持して50になったら、隠居したいがどうも、このままだと、北辺にはほかに若い日本人がいないから50でやめれるかもわからない。ロシアのカムチャッカで抑留されていた高田屋嘉兵衛、彼は無事だったが、配下の者が3人も向こうで冬の寒さに苦しんで亡くなった。

 日本人は、向こうへはとても行けない。舟も小さいし沖にも出れない。カムチャツカは遠いし、冬になれば大半が死ぬだろう。だがロシア人は平気で、世界をまわって、南から船に乗ってカムチャツカやオホーツクで船をとめたりしている。守りしかできない日本人は不利だがせめてエゾはもっと自分の目の黒いうちは気にしないと。子供のいない林蔵にとってエゾこそが、息子!と心に誓った。

 年があけやがて寒かった箱館も、また春が来た。冬は、松前にいくことが一回あった以外は、もっぱら箱館でできた地図の整理をしていた。


 雪がとけだし、港はまたにぎわっていた。箱館は、北の港の基地のようである。昆布や魚介類を運んだ舟が次々とでていった。大半は、日本海側をいく西廻り航路であり、舟は日本海側の陸地に沿っていった。長州の長関(下関)までき、瀬戸内海に入って大坂まで行く舟が多かったが、一部は、九州に入る舟もあると聞くと、いつか、九州、それも長崎へも行ってみたい、とも思った。

 五月に入り、一通の書状が飛脚の手で届けられた。書状は、故郷の隣村の名主である飯沼甚兵衛という人で、林蔵が役人になった折にも保証人にもなってくれた恩人で、両親の面等までもみてくれた人であった。ずっと便りもなく、こちらから地図の製作が官製したところだったし、奉行にも連絡して、また江戸入りする時に、久しぶりに実家に寄ろう!と思ったときに届いた書状だった。

 林蔵は、両親に何かあったのでは!と心配になって開封した。父庄兵衛が先月(4月)に病死したとの知らせ、すでに遺骨もお寺に埋葬されたとのことであった。

 4年前の正月に帰郷して、その後はエゾ地をかけずりまわりながらも、やはり両親のことは気になっていた。出世して、大きな任務をまかされているとは言え、自分は一人息子であった。
 残された母はどうしているか、と思うと、一人、泣いた。

 一茶殿が、やはり最後は故郷で妻帯、と言っていた意味が、本当にわかるような気がした。でも俺はいい、自分が一人で老いていくのは恐くない。だが、それより母もまた一人でさびしくすごしているかと思うと、心配でたまらなくあり、すぐに筆をとって、秋までには返りますといった内容の文言を記すと、本州へ向かう舟に書状を託した。
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プロフィール

作者:福田純也
福田純也
性別:男性
男性

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