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 林蔵、奥の道未知!をいく

 江戸時代の探検家、間宮林蔵を題材とした小説です。

その三

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その三

九月、急いで江戸へ向かう途中、実家によった。久しぶりの対面、これほどつらい対面はなかった。

 母が近寄り、体を抱きしめる。小さくなった母、俺は本来ならここにいないといけない、でも・・・・と思うと涙が止まらない。母も静かに泣いていた。

 するとそこへ保証人の飯沼甚兵衛が一人の女性をつれて訪ねてきた。何でも、一人になった母のために週に数回、甚兵衛の村から母の世話をしてくれる女性で林蔵よりずっと年上だったが、元気そうな人であった。

 みなで一緒にお寺に行き、住職にもあいさつをした。

 翌日、林蔵は、甚兵衛の家にもよって、厚くお礼を言った。

 「お母様のことは心配しなくてもよい。せっかく武士になったんだし、御公儀のお役目、がんばって下され。林蔵殿は、地元の誇りだ」

とやさしく言ってくれると、また涙がこぼれた。

 母のことが心配ではあったが、ここまで言われては、江戸に行くしかない。

 そうおもって母にもあいさつをすると、急いで江戸にむかった。

  江戸にいる伊能忠敬のところに、早く残りの地図を届けねばと思った。春に、一度途中までできあがったエゾの地図を送ったが、残りはつい最近できあがったものであり、持参していた。

 伊能忠敬とは4年前に別れているが、忠敬は西国の九州へ行ってもどっていた。その後は老齢のため、門弟たちを代わりに、伊豆七島、伊豆半島、箱根等に派遣して測量させて、おくられた地図の製図をしていたようである。また、ゴブロニンが釈放され、ロシア船で箱館をでた頃、文化10年に、忠敬の長男景敬が病死して、忠敬の孫が家を継いでいた。また次男も酒乱になり、勘当していた。

 林蔵がたくさんの門弟につれられて忠敬を訪ねると、忠敬はひどく衰えていた。もう不治の病である(肺結核)に冒され、寝ているところであったが、林蔵をみると、かすかにうれしそうな笑顔を見せた。

 林蔵は、忠敬から頼まれ、翌日から同居して製図を手伝うことになった。

 父の死にはまにあわなかったが、先生はまだ大丈夫、なんとか生きているうちに日本の地図を完成させさせたいと思った。忠敬も気分のいい時は半身を起こし、地図の作成をしている弟子たちに指示を与えていた。

 林蔵が蝦夷の海岸線を測量した図も、忠敬を喜ばした。

 これなら、何とか、やれると思ったところ、江戸の町が一夜にして急に寒くなった。
 ずっと寒いのには平気な林蔵だったが、急に寒くなり、また、旅のつかれや、激務のせいか、久しぶり風邪をひいてしまった。

 風邪がやっとなおって正月を祝ったところ、今度は忠敬の病気が一層進んだ。
 忠敬の病気は、梅の花が咲く頃、更に重くなっていた。やがて遺言をして、天文方高橋景保の父である忠敬の師であった高橋至時先生のお墓の隣に葬ってほしいと気丈な態度になって言った。

 4月13日(今の5月の終わり頃)ついに忠敬は亡くなった。日本全図の地図は惜しくもまだであった。それからまもなく元号が改まり、文政元年となった。
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プロフィール

作者:福田純也
福田純也
性別:男性
男性

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