林蔵は亡父のあと、大恩人の一人でもある忠敬の死におちこんでいたが、任務は残っていた。
本当は彼も忠敬の門人たちに一緒に、地図の作成を手伝いたかったが、忠敬の亡くなる前に、ひっそりと蝦夷各地の内陸部の足労も、もしできれば、と依頼されていた。
先生のおっしゃるとおり、確かにそうだ。俺は内陸部にも行こう、と思った。また熊にでくわすかもと思うと、少し不安もあったが、そんな事いってられない。
また、以前から頭にあったロシア語の学習のことも気になり、軟禁中の光大夫の許を訪ねた。
9年ぶりに会う光太夫も、だいぶ白髪も老え年をとっていたが、まだ元気そうであった。
林蔵は奥へ通されると、またエゾへ測量しますが、できたら松前でロシア語も独習したいという希望を言った。
「ロシア語をやりたい!というお気持ちはすばらしいですが、一朝一夕ではできません。測量も大切でしょう。それにまたロシアがくるとは限りませんし、今はおやめになった方がいいですよ」と光太夫は言った。
次はいつ来航するかわからない相手のために、苦労して学ぶのはおかしいかもしれなかった。
「林蔵殿は、よほど択捉島でのことやゴロブニンの事件で、心配症になっておられるようですね。でも船が来航するたびに相手の語学を学ぶとなれば、ロシアだけではありませんよ」
「ロシアの他にも、船は来るのですか?」
林蔵は思わず尋ねた。
「はい、林蔵殿が樺太へ行って測量をされている時に、長崎の出島にイギリスのフェートン号という船が来て、オランダの代わりに、我々と交易せよ、とせまったのです」
「そんな事があったのですか」と思わず聞き返した。
2度目の樺太探検がおわって、江戸についても、病気で寝込んでいたからか、その話を知らないでいた。江戸でも少しは騒ぎになったはずだが、江戸城でも自分にも誰一人教えてくれなかったのだった。
「江戸でも蘭学者や、一部の幕臣の方以外はあまり知らないことです。もっとも長崎では騒ぎになりましたけど・・・・江戸までは遠いですしな。私も時折、いろんな蘭学者の方が来られますので、ずっと後になって知ったのです」
「そうですか?それでイギリス船は」と林蔵はきいた。
「はい、詳しくはわかりませんが、長崎を去ったみたいですな。長崎奉行では、水や薪や野菜を与えることを指示して、去っていったとのことです。イギリス人は、ロシアよりもたくさんの船を持っていて、東洋にたくさん出しているとか、これからは、イギリスの方がまた来るやもしれません。さらにロシアも私が女王と会った時、王宮ではロシア語でなくフランス語を使われていましたが、そのフランスもオランダよりはるかに強い国ですし、東洋に進出するかもしれません。ただ、蘭学者の中には幕府に通じている方もいて教えて頂いていますが、すでに英語辞書も初めてオランダ人の力を借りてつくろうとしているようですから、間宮殿は北のまず測量をしっかりすませて、それから御自分で言葉を最初からするより、若い通詞をむしろ、指揮されたり、また助言を入れられる方がよいかと思います」
光太夫は続けた。
「さらに今は西廻り航路が長崎から馬関(下関)を経て、箱館まで来ますし、清国もそういった西洋事情を漢文で長崎に知らせているかもしれませんし。漢文なら間宮殿も得意でしょう」
林蔵はうなづき、光太夫の言葉に従った。