その年の4月29日、房州沖にイギリス船が姿をあらわした。江戸から、ロシアでも活躍した通詞佐十郎と安達左内が派遣されて、水、食料を求めて来航したとのことであった。水、薪、大根、魚、鶏、お米を与えると、今後は日本国土に近づかぬよう伝えた。
また、翌文政6年8月、どこの国かわからぬがエゾ地にあらわれ、水を汲むと去っていったという知らせが江戸まで入った。
もしかしてまたロシアだろうか、林蔵は思った。
もっとも林蔵も、いつも心配していたわけではない、彼もいつどこへ派遣されるかわからないし、また、実家の母のところに江戸から2日で歩いて帰省したり、忙しくしながらも、歌麿の浮世絵を見たり、忠臣蔵の歌舞伎をみたり、隅田川や荒川まで舟遊びをしながら、つりを楽しんでいた。また、ロシア人の巨大さに驚いたからか、強い日本人はいないかな、とおもって、つい相撲に足を運んだ。特に彼のお気に入りは実家に近い常陸国出身の稲妻雷五郎という後に横綱になる力士で、まさに小兵ながら巧みな技で大きな力士を倒していた。そして、ちょうどこの頃入幕を果たしたところであった。実家からまた江戸にもどると、力士の応援を楽しみ、酒を飲んだ。
文政7年になると、5月に、江戸や彼の故郷にも近い常陸国に2隻の異国船が来て、乗組員が上陸したとのことであった。
御三家の水戸藩ということもあり、すぐに江戸に知らされたところ、水戸藩士の手で捕らえたとのことであった。もっとも捕らえたとは言っても舟は2隻から4隻と増えて泊まっていた。江戸からまた林蔵は、江戸の代官若い通詞と共に現地に向かった。通詞の質問に答えたところ、イギリス人であった。
イギリス人は、日本近海には鯨が多いので捕鯨船が集まっている、我らも鯨を捕りに来たが、野菜や果物、あと鶏肉などを求めて上陸したとのことであり、本船に帰してほしいとのことであった。
代官である古山善吉は、イギリス人2人の答えに疑わしことはないので、また食料としてりんご、芋、大根、鶏、酒を与えて釈放した。
捕鯨か!と林蔵は思った。日本人も鯨をとっている。だが、イギリス人がわざわざなぜ鯨をとるのか。蘭学者に尋ねた。何でもイギリスに限らず、西洋では、油が不足しているとかで、その油に鯨油を使うとのことであった。それでいて、鯨の肉は食べずに、捨てている。もったいないなと、林蔵は思ったが、今回の事件は、正に氷山の一角のように感じられてきた。
幕府でも、房州から奥州までの海岸線の調査及び、異国の捕鯨船について情報を集めることを計画していた。林蔵はやはり最大の適任者として、彼自身も思っていたが、予想通り任命されると、大丸呉服屋に久しぶりに向かった。今回は役人としては行かず、町人姿に変装するので、ここに入ったのだった。
久しぶりに、変装だ、以前、江戸で会った俳諧の小林一茶とも、この近くの店で会った。実はあの人もここで徘徊師に化けて、本当に徘徊もたくさん読みながら、西国を中心に隠密していたにちがいない。
今は故郷でどうしているだろうか。たしか、最近のお手紙では子供を4人授かったが、すぐに全員亡くしてしまい、ふた廻り以上年下の若い妻も通風で亡くなったとのことであった。
ずっと一人でいて、やっと結婚して子にも恵まれながら、何とも悲劇な方だ、と林蔵は感じた。自分よりふた廻りも若い妻に先立たれるつらさ、やっとつかみかけた幸福、なんと無残であるか、と思うと、林蔵まで悲しくなった。