林蔵は再度、先の探検の成果である地図の測量図も含めて清書すると、箱館奉行の河尻肥後守に提出した。
それから気持ちを切り替えて、いよいよ次回の探検の準備を始めた。
7月13日(現代の8月下旬頃)、今回は、松田もいないし、共のアイヌ人の人数も減ったことから、前回の図合船より少し小型の舟で出発することになった。現地で入手できない米や煙草や清酒の樽を前回よりもかなり増やしながらも、現地で入手できそうな干魚等の食料はずっと減らし、羅針盤、防寒具のコンチ(頭巾)衣服他の荷物をいれ、出航となった。米や煙草や酒は、前回の探検の際も、樺太各地の集落の原住民に分けてあげると喜ばれたから、それを思い出し、増やしたのであった。数人のアイヌ人と乗って宗谷を離れ、その日の夕刻には、最南端の白主についた。
白主についた林蔵だが、前回と違って、北部まで舟をあやつることのできるアイヌ人が足りかったので、なかなか出発できず、何日も動けなかった。早くしないと冬になっちまう!、と焦る気持ちを抑え、近くの森に行っては、同行のアイヌ人たちと、鹿狩りをしたり、釣りをして気を紛らわせた。森には鹿が多く、面白いくらいによく摂れた。摂った獲物も燻製に保存して、これで食糧が増えると思うと、これで良かったとも思えてきた。
その後、松田が以前雇った少し北のアイヌ人の集落であるトンナイに住むアイヌ人が白主までやって来たので、なんとかうまく説得して、米、煙草、酒も以前よりも少し弾むことにして雇い入れることに成功したので、まず白主からトンナイに向かった。
8月3日、新しいアイヌ人の舟を入手すると、舟はトンナイを出て、さらに海岸沿いに進んだ。だが、トンナイから先は新たに、アイヌ人を雇うのも大変だった。これから、樺太は長くきつい冬に入るし、ニブフ人とは別の凶暴な山丹人という民族も大陸から渡ってくるかもしれない、という噂がアイヌ人たちの間であり、彼らの多くは、北部に行くことを怖がっていた。
それに、ニヴフ人、オロッコ人と、さまざまな部族にわかれているだけでなく、北部ではすぐ凍るし、食料の入手も心配で、たくさん持参するとしても、野宿も不安であった。短い夏とはまるで違う冬の恐ろしさを林蔵よりもよほど肌で感じているようであった。
林蔵は、そんな彼らの不安を察知しながらも、ともかく急げと舟を進めたが、やはり、樺太は長細く、なかなかノテトへ着かないように思った。
やはり海流のせいであろうか。日本海を北上していけば、南からの対馬海流は北の蝦夷まで行くが、そこから先は、北からの寒流が流れているから、進行方向の逆であった。
やっとのこと、中部のリョナイに着いたのは、8月も中旬に入った頃である。リョナイでは皆で仮小屋をつくって寝た。
この時代は、太陰暦だから、今の暦だともう9月も終わりの秋の頃である。そろそろ、農民はお米の収穫に入ろうとする時期だなと林蔵は思った。子供の頃からずっと実家を離れ、たまに江戸から蝦夷を行き来する際に立ち寄った実家の村落を思い出した。択捉から江戸まで護送中は参れず、帰りはお咎めなしとなり、一人旅だったが急いで陸奥に向かったので、立ち寄ることもできなかった。
林蔵は、両親は、いまだ三十にもなりながら、妻帯もせず、幕命として遥か辺境の地まで出ている一人息子をどう思っているのだろうか、と思ったりした。
もっとも下役とはいえ、百姓の息子が武士になったのだ。そして、これから誰もがやらない、いや違う、誰もがとてもやれないことをしているのだ。きっと、わかってくれるだろう。ここで必ず成果をあげて、いつか凱旋するぞ。とまた思いなおした。
リョナイに着いた明くる朝、起床すると、すでに同行のアイヌ人たちが騒いでいた。何事かと思って慌てて身支度を軽くすまして外に出ると、弓や槍などの武器を持ったニヴフ人とも違うかなり凶暴そうな男たち数名が舟から降りてきて近づいてきた。アイヌ人がいうには、大陸からやってきた山丹人とのことである。
アイヌ人は彼らを見ると既に怯えている中、林蔵は使命感のようなものを感じて前に出た。そしてアイヌ語を使って、奥地調査に来た日本人だと言った。しかし彼らにはアイヌ語が通じなかったようであった。
林蔵も、彼らの凶暴そうな顔つきや大きな叫び声に内心怖くなった。しかし、俺はアイヌ人と違う、日本のそれも刀を差した役人だ。俺を殺せば日本人が宗谷から渡って、お前らを攻撃することもあるぞ、と実際は難しくありえないだろうと思いながら、既に宗谷にいた500人の会津藩兵を思い出して、自らを奮い立てようとした。
アイヌ語は通じなくても、案外、漢字はわかるかもしれん。と思って砂浜に日本人、酒、米等と書いて、酒の入った壺と米の入った袋を渡した。
彼らは、漢字の意味もわかっているのかいないのか、定かではなかったが、林蔵の書く漢字を見て、一同顔を見合した。林蔵も日本の役人ということで、刀を差すと、やはり現地のアイヌ人には決して見えなかった。
月代は宗谷でそり、少し髭は伸びていたが、漢字を書くということで、殺してはならないと相手に感じさせたようである。たぶん、樺太北部は、東韃靼と同様、清国の影響下であろうか。
交易を行う彼らは、アイヌには強くとも、清国の役人には弱いのかもしれなかった。清国での教育はどこまで進んでいるのか定かではないが、お役人ともなれば、漢字で文章をつづるに違いない。
清国人同様、漢字を使う日本人の林蔵には乱暴できないように感じたようであった。