以前、林蔵自身、ロシア艦の攻撃で、択捉島のシャナ会所から箱館まで、失意の中で逃れてきた後に聞いた話を再び、思い出した。
長崎に来たロシアのレザノフの船も、15年前に光太夫をのせたラクスマンと同様に日本の漂流民を乗せていたが、陸路でシベリアを東へ東へと渡りオホーツクから船にのったラクスマンと違い、はるか西のロシアの首都から船で、反対方向の大西洋をわたり、アメリカ大陸をずっと南下して南米大陸の南(マゼラン海峡のこと)をこえてきたとのことだった。そこから太平洋に出ると、今度はずっとずっと北西に向けて進み、赤道を越えてロシアのカムチャッカ半島まで行き、最後に舵を南西に変えて、日本(長崎)に向かっている。林蔵は、以前、江戸で見た西洋画の絵師、司馬好漢の描いた(というか、オランダから長崎へ伝わった絵を模写した)世界地図の図面を思い出した。
本州の隣の蝦夷でさえ、未だきちんと開拓できぬ日本人に比べると、西洋諸国は、こんな離れたところまで渡ってきて、すごい航海術を持っている。せめて、樺太まででも、やはりきちんと把握しておかねば、切腹ものだ!。俺は百姓から士分にとりたてられたのだ、と自身に気合を入れ、やはりまだこんな北まで行ったことのないアイヌ人たちをはげまして北へと舟を進ませた。
何日も、海辺で野宿を繰り返し、ついにナニオーという集落についた。この辺りになると、再び海が広がっていて、当然ながら大陸のアムール川の河口も全く見えなくなっていた。濃い霧のせいだけでなく、もう樺太と大陸とがだいぶ離れてきたせいのようだった。集落に入ると、やはりアイヌの家はなく、ニヴフ人の家があり、同行してきたニヴフ人にたのんで現地の家を訪ねた。
「ナニオーより北の村はあるのか」ときくと、集落のニヴフ人は、「もうここより北に陸はない」と答えた。
なら、ここは、一番北か?!、林蔵は、さらに質問を恐る恐る重ねた。
「この地は、大陸と地つづきではないのか」
うまく訳せないながら、共のニブフ人も交えて、アイヌ語で何回も根気よく、ついには地面に図をかいて知らせると、やっとわかってもらえたようである。
「いや、ここは地続きにはなってない。海だ、向こうの彼方に陸があるが、舟でないといけない」と、林蔵たちが乗ってきた沖の方を指して答えた。
ああ、やはり島で良かったんだ。ついに樺太北端まできた!と思うと今までの疲労が軽くなったようでうれしくなった。
なら、ここはこんどはこのまま、樺太の海岸に沿っていけば、この辺りが最北だろうから、いずれは東海岸に出るであろう。その東海岸をこのまま、陸に沿ってずっと最南端の白主までつけば、と想って、同行のニヴフ人を解してきいてみる。だが、それは無理だ!と、現地人たちは両手を振っていった。。
「向こうの海は、全然ちがう。向こうはこちらよりも波が荒れている。我々の舟では、とても無理だ」と手を振って答えて、そしてつけ加えた。
「昔みた赤人(ロシア)のとてつもなく大きな船でなら行けるかもしれないが、われらの舟では陸から少し離れると、確実に波にさらわれるだろう」と言った。
林蔵は少しがっかりしたが、とにかく島であることをわかったことだし、納得しよう、と思った。ここまでやれば、奉行も俺を認めるだろう。無理に東海岸に行って、途中波が荒れたら命もない。それでは結局、報告もできない。
これでいいのだ。もうやめろ!という天命かもしれぬ。ただ、残念と思うとまた、ふと短歌が浮かんで、二つ詠んだ。
ついに北(来た)、樺太の果て、東から、南下したいが、軟化せず波。
樺太の、東の海は、荒れ放題、こっち来るなと、天の声かも。
結局、ここは何もない。最北まできたが樺太には清国人もいなかった。清国人の影響下もあるというが離れているせいか清国の役所もなく、そしてあるのは短い夏と長い冬、昔から厳しい環境の中で、必死で獲物を捕って生きる原住民の姿だけだった。
そして、ロシア人もいない。林蔵は、ふと短歌をまた詠んだ。
樺太が、半島だろが、島だろが、気にせず暮らす、現地人たち。
(第三章終わり)