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 林蔵、奥の道未知!をいく

 江戸時代の探検家、間宮林蔵を題材とした小説です。

その九

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その九

「ただ海の波が荒く、お前の乗ってきた舟では満潮になると危険だ。小さすぎる」コーニは心配そうな表情を浮かべた。
 
「どんな舟ならいいのだ」と林蔵は尋ねた。

「うむ、我らの舟なら行ける、お前の舟より大きいし、何よりも丈夫だから、荒波にも強い。日本人であるお前に貸してやろう」と言ったので、林蔵は御礼を述べた。

林蔵は、今回はあせらず、ゆっくりとノテトにいる事にした。ここから北の海は浅く、なかなか氷はとけないが、もうすぐ夏になる。じっと待って、漁や狩りに同行しながら現地住民の暮らしぶりをゆっくりと絵で描きながら待つことにした。

 まもなく、ニヴフ人の狩猟も手伝っているうち、解氷になり、流氷も全くなくなっていた。

 昔、光太夫殿が漂流してシベリアから日本に戻るのに10年以上かかった。俺はまだ宗谷を一年経っていない、そうや、そうや(宗谷)と思うと一人笑えてきた。村でとってきた鹿の肉や、海でとったあざらしの肉を焼いて、現地の人たちと食事をし、歌って踊った。

 ただ同行していたアイヌ人たちで、以前にも連れてきた者が一人、ここから北方にいくのをまた恐れだしたので、コーニに相談して、アイヌ語のできる大柄なニヴフ人の男を道案内兼通訳として、新たにやとうことにした。それにしても、林蔵はアイヌ語を覚えるのに、以前から、辞書を使ったり、また彼自身、日本の文字(カタカナ)で書き留めたこともあって速く習得した。
だが、文字のないアイヌ人もニヴフ人も、すでに会話して覚えている。ニヴフの言葉は、アイヌ語ともかなり違うようなのに、と思うと感心した。これは昔からの伝統なのか。コーニも漢字の読み書きもできないが、清国語(中国語)の会話までもわかるとの事だった。よく鼻歌を歌っていたが、言語を、民謡の歌詞のようにしておぼえていた。
歌の力はすごい。俺たちは、漢字に、さらに庶民でもほとんどの者がもっと簡単な仮名文字という便利なものを使っているがゆえに、得たものの方が多いが、逆に何かを、林蔵自身、うまくそれを表せなかったが、失ったような気もしてきた。

 5月(今の暦で6月上旬)に入り、だいぶ暖かくなり、ノテトを離れた。短い夏の始まりである。

 舟は快調に北上してラッカについた。しかも、今度は潮が満ちていて、さらに北へ進めそうであった。

  林蔵は喜びと共にほっとした気持ちで、また方向を測り、絵図を書きとめた。俺はどうやら、芸をやるなら詩作よりも画才の方があるな、と思う。帰ったら、歌麿みたく美人ばかりを集めて描いて浮世絵の画家になれるかも、と半ば冗談ぽく自画自賛しながらも、ここが正念場だと思った。

 ラッカをこえてしばらく行くと、海が広がってきた。さらに海辺で野宿しながら慎重に進むと対岸には蝦夷の石狩川よりも遥かに大きな河口もみえる。実はすぐに河口だとわからなかったが、同行のニブフ人があれは川の河口だ、とアイヌ語で言ったので、これがついにアムール河か、と思った。ノテトからもすでに25里(100km)を進んでいて、ずっと川の河口の向こう岸はなかなか見えない。とてつもない広さ、と林蔵は思った。こんなに河が、冬になれば凍ってしまう狭い海峡と近いから、よけい紛らわしい❗だから、樺太が半島か島か、わからないのだろう、と林蔵は思った。
 
 とにかく、ここで終われない、きちんと島か半島か、見ないとならぬ、これでだめなら、またいつ行けるかわかりやしない、とにかく、あきらかに島であるというのをきちんと見ないとならぬ、何のために、わざわざ二回目の探検を志願したか、林蔵はそう思うと、またしても、気合が入ってきた。
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プロフィール

作者:福田純也
福田純也
性別:男性
男性

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