林蔵は、鼻や耳も冷えてついには痛くなりだしたが、必死で耐えながらコンチ(頭巾)を被り進んだ。風の弱い日は、逆に彼が先頭に立ち進んだ。
途中アイヌ人の家に泊まらせてもらったりしたが、家がどこにもない時の方が多くなってきて、そうなると森の中の洞穴のようなところで野宿をなんども繰り返し、ついには生死をさまよいながらも、11月も終わりになろうとする頃(今の暦の1月初旬頃)フラフラして一行はトンナイにたどり着いた。この頃になると、林蔵自身、頭の中は真っ白で、ただ本能のように足を進めていて、知らぬ間に左手は凍傷におかされていた。リョナイよりずっと大きな集落が見えだし、トンナイだ!という連れのアイヌ人の声でやっと、我に返った。天命か!、まだ俺はギリギリで生きていると思うと、目から自然と涙があふれた。
助かったぁ!、と思った瞬間、倒れそうになり、トンナイに住むアイヌ人の住む家の中でも大きな家に入ると、すぐに凍傷の治療をしてもらった。温かい湯を入れた桶に両手を浸して、黒い薬を塗った。熊の胆で作った薬であった。
日本の内地でも、熊の胆はすでに漢方薬として使われているが、江戸では高価であまり使用したことがなかった。塗ってもらった薬は、冬眠直前にアイヌが捕まえたヒグマで作ったもので、幸いよく効くようだった。
「私の他の皆は大丈夫だろうか」林蔵はアイヌ語で言うと、アイヌ人は答えた。
「アイヌ人たちは大丈夫です。凍傷になっても大したことはないでしょう。和人の貴方のほうが心配です」とのことであった。
手当を終えた林蔵は、粥をすすり、久しぶり鮭の焼き魚を食うと、ホッとして、ぐっすりと眠った。
それから、ひと月、じっとアイヌ人の家で、ほとんど寝ながら過ごした。年が明け、文化6年なったが、あいかわらず外はひどい吹雪で、さすが樺太と、林蔵は内心、思った。
幸い、手の指の腫れは少しずつ引き、だいぶ快方に向かっていたので、休みながらもこれまでの経過を思い出し、リョナイで過ごしたことや、リョナイからトンナイまでの旅のこと等も記録して、まとめた。
それから、それらの記録と共に箱館奉行所宛の書状を一包にし、そこに日本人である漁場の支配人が宗谷からアイヌ人を従えて北上してきたので、手渡すことができた。支配人も春になって宗谷へ行ければ、さらに南の箱館まで行く予定とのことであったので、奉行に届けてもらうよう依頼した。林蔵は、箱館奉行、吟味役の高橋重賢宛に、包みの手紙の中で、また春になったら、トンナイから北の海峡の方へ行くことを記した。
まだ寒いし、身体の具合も完治したわけでもない。それに、彼一人で行けるわけがなく、アイヌ人の仲間もいないと結局できやしない。とにかくゆっくりあせらず待つことだと考えることにした。
まもなく、トンナイに住むアイヌ人が、犬の毛皮でできた服装を分けてくれた。熊よりよほど軽く、意外にあったかい。しかも、氷が付着してもすぐに落ちて移動しやすいことにも目がいった。
熊は一見すると、体も大きく、また熊の胆が身体に効く漢方薬としても有名なせいもあるが、防寒具としてはどうか? 蝦夷ではアイヌも熊の毛皮を使っていたが、更に冷える樺太では、現地人が犬の毛皮を使うのもやはり長年の知恵なのだろう。
それに熊は冬は結局穴にこもって冬眠するが、犬は一向に関係ない。
林蔵自身、犬の毛皮なんて、まるで水戸光圀公じゃないか、と思った。
彼が樺太に行く約100年前、元禄文化が栄えたが、時代は第5代将軍徳川綱吉の治世だった。犬公方と言われた綱吉が、生類あわれみの令で犬の他、動物の殺生を厳しく取り締まって、その結果、捨て犬が増えた時、その政策に大反対な徳川御三家の水戸光圀公が大胆に多くの野犬狩りをして冬の防寒具にどうぞと、綱吉公に送ったことがあるが、光圀公は将軍綱吉への反発だけでなく、犬が防寒に適している、とわかっておられたのかもしれない。(もっとも、この頃、犬を殺せば御三家の光圀公でなければ、必ず、その藩は御取り潰しになるから、絶対できない行為でもあった)
俺の実家も水戸から江戸に行く途中で近い方だが、さすがに犬は殺せなかったな。俺はやはり、樺太のアイヌでもなく、日本人だな、と林蔵は一人苦笑した。
海は、というと、年が明けてからひどく凍りついていた。
林蔵は一緒に同行してくれたアイヌ人に「海は氷になっている。これだけ凍っていれば歩けるし、それでいて以前ほど寒くないし風も弱い。これからは春になるし、ぜひ同行してくれ」と頼んできてもらおうとしたが、せっかくトンナイに戻ったのに、北上したらしたで、今度は、また大陸から山丹人がやって来るかも、と恐れていた。昨季、リョナイで山丹人が来たこともあり、今度こそあぶないと思っているようであった。