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 林蔵、奥の道未知!をいく

 江戸時代の探検家、間宮林蔵を題材とした小説です。

その二

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その二


 林蔵は、老中から旅の路銀を受け取るとすぐ下屋敷をでた。
 そして、次の日の朝、また大丸屋呉服店に入ると、俳諧師の格好をし、また乞食の着そうなボロイ服も用意して、それを手行李の中に入れた。
 
 俳諧師の格好をすると、死んだ小林一茶のことを思い出した。
 あの人は最初から俳諧師だったのだろうか、それとも俳諧師に化けて、その変装を続けているうちに本当に俳諧に目覚めたのだろうか。と林蔵は一人、急いで歩きながら考えた。
 もっともあの人は主に西国を歩いたという。俺は今回また久しぶりの奥州とエゾ。ならば150年前の松尾芭蕉かな。でも芭蕉の頃は、平泉や最上川まで行って、一番奥だった。陸奥(青森県)が本州の奥だが、そこまで行かなくてももう奥の細道といったのに、100年ちょっとで、エゾすら奥ではなくなっている。世の中、変わったな、と思う。

 そして思いながら、いやいやちがうな、と否定する自分がいた。

 今も大半の人にとっては、蝦夷も陸奥の津軽でさえ辺境の地。だが俺の場合、やはり、ロシア船をみたり、長く蝦夷にいたり、樺太に大陸までもも行ったからな。俺も、もしロシアなどの国が蝦夷まで来なければ、どうしていたかな。幕府も直轄地にしなかったろうし、測量だってせいぜい箱館と松前のある渡島半島だけしかやらなかったろうし、案外、江戸で伊能忠敬先生の下にずっといたかもしれないな、と思った。
 そして、先生の元で、縁談でもあって、あっさり結婚できたかも、と思ったりすると、少し独り者のさびしさを感じたりもした。

 ロシアが来て、そして今はロシア以外の外国船が頻繁に来る、幕府に自分は必要とされている。もし、西洋の船がなければ、隠密もしなかったかもしれない。
さて、どちらが幸せだったのか、と思う。

 一人で歩いていると、どうもこんなどうしようもできない運命についてたまに嘆きそうになった。やはり、シーボルト事件のせいだ。それまでは、まわりからも褒められたのが、今や裏切者と言われたことで、強気な林蔵も江戸から離れたい、と考えてしまった。
 悩みながらも、足はあいかわらず健脚である。東北道をかけぬける、どうも句など詠める気はしないが、だけど、歩く、歩く、歩く。

 目的の津軽藩に入ると、ついについた!と、俳諧師のように、詠んでみようとするが、字数が12字だけでは、短いのでうまく詠めない。
 それで字数が31文字の和歌を詠む。

 "将棋盤 広がり陸奥も 奥ならず もっと奥まで ついて香車かな"

 本当、将棋は途中成り金となるが、どこまでも奥が向こうにある感じ。いや樺太まで行ったし、樺太が奥であるけど、まだ終わらない。俺は香車だ!狗だ!と思って詠んだら、ちょっと虚しいけど、また何故か気合が入っていた。"奥までついて!" 何を言ってんだ。
 あの世で一茶殿がこの歌を詠んだら誤解されそう!俺にとっては、日本中、奥まで調査、それしかない!と思いながら、歌麿の美人画まで浮かんできて、変な妄想に一人でニヤケそうになった。

 早速、ただの俳諧師として、異国船騒ぎのことをきいてまわった。みな、ひどい方言で当初はよくわからなかったが、顔はおびえていた。異国人はよく近くに上陸し、村に寄っては、薪や水を運ぶらしく、また大きいからとにかく恐ろしかったとのことである。
 津軽藩士も城からやってきたが、みなやはり怖がって何もせず、隠れたという。
 ダメじゃないか?と林蔵は思ったが、いや待てよ!ここは何もしない方がいいのかもしれないな、とも考え直した。下手に戦になっても、どうも今の幕府もたよりないし、ましてや小藩の武士は仕方ないな。と年をとった林蔵は、昔と違いやさしい気持ちで、今は調べるのみと続けた。
 舟へ渡り、いよいよエゾ行きである。(ああー津軽海峡、久しぶりにまた海を渡る。無事に港に着くとここでは俳諧師でも昔長くいたからやばい、と、船がつくと早速乞食姿に化けた。

 ただ、乞食が路上にたくさんいた。昔から松前や箱館はにぎわっているが、乞食をしている者が今まで以上に多いようだな、と不思議に思った。調べてみると、やはり、昨年までの米の不作が原因で、奥州の農民が渡海しているようである。松前藩はもともと米が取れないが、港にはいつも西廻り航路や、江戸から仙台を経由して来る東廻り航路で積まれた米がたくさんあり、それらは昆布や鮭と交換されていた。貧しい奥州の藩は、米をとにかく少しでも売るが、松前藩はそれをめずらしいが豊富な魚介類にかえて出していた。

 だから、藩の備蔵米はいつも豊富で、窮民に安く売ってあげたり、また無料であたえてあげたりしていた。

 奥州の藩では天明の大飢饉の時に白河藩以外で死者を出したが、北の蝦夷には一人もいなかった。そして今回も、ここに餓死者はいない。
 凶作になると、北奥州の農民は土地を出て、誰も無口で冬景色の津軽海峡を渡り、どんどん上陸していた。南の江戸は遠いし、北に行くほうが楽なようである。
 林蔵は、ここをやはり直轄か、また水戸藩の斉昭公に来てもらい、海峡を渡った者こそ、開拓者にすればいいのに!と、ますます思った。
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作者:福田純也
福田純也
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