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 林蔵、奥の道未知!をいく

 江戸時代の探検家、間宮林蔵を題材とした小説です。

その一

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その一

第十一章 長崎へ

 事件の処分が終わった頃、勘定奉行の村垣淡路守から、間宮林蔵を長崎へ隠密として行かせよ、という密命が届いた。

 今回のシーボルト事件も、結局は、シーボルトと(江戸の)高橋重保が情報や物品交換できたのも、もともと長崎のオランダ通詞が仲介役をしたことが一因であり、その実情の調査であった。
 林蔵は久しぶり、大丸呉服屋の一室で商人の身なりに変装すると、すぐに東海道を進んだ。
 今回、唯一ほっとしたのはアイヌ語の師、エゾ探検の先駆者である最上徳内がおとがめなしであったことである。最上徳内も長崎屋にいたシーボルトを数回訪ねて、かなり親しくしていたようである。アイヌ語の辞書も与えたようであるし、また、彼が長く滞在したエゾのことを彼自身が記録した書籍もシーボルトに渡っているはずだが、すでに70歳をこえた最上には今回何のお咎めもなく、林蔵は不思議な気もしたが安堵した。
 最上はオランダ語に通じている蘭学者でないからだろうか、そんな事を思いながら、西へ向かう。
長年、旅をしていたが、五十路になって初めての東海道、他の街道よりも旅人の多く、宿場も大変にぎわっていた。お伊勢参りにもこの街道を進む旅人が多く、当然と言えば当然だが、林蔵は一人隠密として、もっとずっと西の長崎まで、ゆっくり歩く余裕もなく、ひたすら、一人だけ飛ばして歩きに歩いた。幸い大井川もすんなり渡れたので、浜松で名物のうなぎの蒲焼をたべる。よく歩いたせいか、江戸で食べたうなぎよりはるかに旨いように感じた。
 歩きながら、亡くなった小林一茶や、大黒屋光太夫のことも思い出した。

 樺太へ行く前に会った大黒屋光太夫は、帰国後、ほとんど江戸で軟禁状態だった中、俺が始めてあった時はすでに帰国して10年以上経ち、すっかり日本人になっていた。確か、最低一回は故郷の伊勢まで墓参りを許されて、この道を通ったにちがいない。犬そりで、凍ったロシアの道を進んだ彼も、ここではゆっくりとかみしめながら、草鞋を履いて歩いたのだろう!
そして、大多数の仲間が漂流生活やロシアでの移動で亡くなった中、生き残って日本にもどり、伊勢へ行く事の喜びをかみしめただろうか、それとも、自分と部下の磯吉の2人だけしか帰れず、他の者の故郷への思いと未練をずっと持ち続けたであろうか。
 たぶん、どちらもあったろう!林蔵は思った。(俺も)運命、樺太で死ぬことなくなんとか生きて、五十歳になって今、西へ急ぐ俺も、運命だ!と林蔵は思った。

 道を越え、大津につくと琵琶湖がみえた。日本で一番大きい湖だ。近江に海はないが、中に大きな海のような湖で、舟がたくさん泊まっていた。林蔵は湖の脇を通り抜けながら、ゆっくりと京に入った。ついに上方である。
 京ではぜひ行ってみたい場所があった。京は、師の伊能忠敬が本初子午線にした場所があった。地球の緯度とちがって、経度は、どの国の測量かも自分の国や、中心地等を中度(ゼロ度)としていた。
 これを本初子午線というが、イギルスのグリニッジ天文台が世界基準となったのは、林蔵が長崎へ向かっているこの時から、半世紀程たった明治時代のことである。

 伊能忠敬は、京の改暦所(江戸幕府が設けた天文台)をゼロ(中度)としていた。幕府が江戸で政務をつかさどっているとは言え、やはり、日本には朝廷が古くからあり、日本人にとっての君主は帝だ、そして、徳川は将軍であり、俺もその徳川に使える幕臣だ。ならば、この国のために外敵と戦わねば、と思った。
 林蔵は改暦所に用事もなかったが、ここを基準としていたこともあり、歩いてみたくなり、行くと、師であった忠敬を思い出した。あの地図があやうく日本から海外へ自分のつくった樺太の地図も一緒に!とまた思うとくやしくもあり、急ぎ大坂へ向かおうと足を進めた。

 大坂に着くとこれからいよいよ西国だと思う。長崎は九州のしかも一番西である。途中、姫路藩領から船に乗った。足のつかれもこれで一休み、シーボルトも小林一茶も、瀬戸内海なら安心して舟に乗っただろう。そう思った。

 一茶殿は俳諧の修業と称して、西国各地を旅したが、やはり自分と同じ隠密だったろう。改めて、一万句を詠んだとはやはりすごいな!と林蔵は思った。しまった、自分も芸術を、と絵の道具でももっていればよかった、と思ったりもしたが、どこか、藩士に隠密かと怪しまれる絵など描いては、と思う。そしてまた、一茶のことを思い、彼が薩摩だけは入れなかったといった言葉を思い出した。

 鹿児島城のある島津だけは、なかなか隠密も入れない。何せ方言があまりにちがった。
 ずっと以前、薩摩藩江戸屋敷に何とか潜入できたが、藩士たちの会話の意味がさっぱりわからず、しかも屋敷内にいることが発覚して、あやうく捕まるところ、何とか逃げた隠密がいたという。ここは、蛇の道は蛇ということもあり、林蔵も知っていた。

 しかも、その頃は、江戸では、大名屋敷ばかり入って、盗みをしていたねずみ小僧なる本当の物盗りもいて、武家屋敷自体の警備が厳しくなったとのことであった。
 薩摩。日本の南の一番奥だ。北も奥地まで行ったことだし、いつか、行ってみたい。本当は伊能忠敬が行ったように、特別に測量であれば行けたわけだが、この頃の林蔵は別に幕命をうけて樺太へ行っていた。

 一茶殿も俳諧師として行こうとしたようだが、やはり若かったから失敗したのかな、ならいづれ生きているうちに機会があったら、もう50も越えているし入国したいな、と考えたりしていると、やがて舟は西へと進み、馬関についた。
 馬関から舟にのりかえるとすぐに小倉につく。それからも衰えることなく、長崎に着いた。
 長崎に着くための最後の峠についたら、景色が看えた。
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プロフィール

作者:福田純也
福田純也
性別:男性
男性

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