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 林蔵、奥の道未知!をいく

 江戸時代の探検家、間宮林蔵を題材とした小説です。

その八

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その八

それからしばらく忠敬の家で泊まりこみで測量を習った。樺太でも自分なりに、忠敬から譲ってもらった羅針盤をもとにして正確に測量をしたつもりだが、まだ誤差があったような気がした。

 もうさすがに、樺太の奥まで行け!とは言われないだろうし、すでに伊能忠敬とその弟子たちの手で、蝦夷地から九州の大部分に至るまで測量はなされているから海岸沿いの測量でなく、蝦夷地でも内陸での開拓や農業指導等の業務が中心で測量の必要はあまりないかも知れないが、忠敬からもぜひ共と言われ、かつ、自分自身、未練もあったので必死にやった。それから間もなく小林一茶からの林蔵に当てた手紙が使いの者から届けられた。
一茶は、またあれから生まれ故郷の北信濃へ旅立たれるとのことであった。先日、もう、そろそろ、終のすみかとして、故郷で奥さんを探し、のんびりと句を詠み、そして畑で野菜や梨など植えるのだろうか、と気になった。
 
 あの人も、わかっているだけで、すでに一万以上も俳句を詠んだとか。実際毎日必ず詠んでいるのだろう。奥を極める、は、樺太等、未開の奥に行くことなど必ずしも遠くに行くこととは限らない、私の場合、女を知ることです、と言って笑ったな!、妻帯できるのかな、あの人、もう五十路だぜ、と林蔵は思い出すと、一人ニヤリと笑った。

 俺も故郷に帰っていない。今も江戸にいるが、また蝦夷へ行くはずだし、俺も今度は、故郷に必ず立ち寄ろう!、俺ももとは下総の百姓だ、と林蔵は思った。

 さすがに一茶のいる北信濃へは寄るのは方角も違うし無理であるが、あの人と話していて、またも故郷の両親を思い出したのは事実だ。それに今、伊能先生の所にいるが、伊能先生も学者としてはすでにすごく尊敬されていたが、父親としてはあまり幸せに見えなかった。

 忠敬は18歳で伊能家養子となり、4年年上の妻と結婚し、下総国佐原(千葉県佐原)の利根川の水運業での商売をかなりうまくいかせて名主となり、3人の子供にも恵まれたが39歳の時、妻は病死した。

 その後、内縁の妻をむかえて、その妻との間に2人の子を得たが、その後離婚した。そして、46歳で後妻を迎えたが、5年後に亡くなり、また計5人いた子供のうち2人を病で亡くしていた。

 佐原での家督をその頃(寛政7年(1795年)長男にゆずり、江戸にでると、自分よりも19歳も年下の、大坂から江戸にでて幕府の天文方の責任者になっていた高橋至時に弟子入りしていた。

 長男の景敬は、忠敬のような学問好きでなく平凡な男、次男の秀蔵は内縁の妻の子で、測量術の後継にしようと蝦夷地や各地につれていったが、測量を嫌がり父に反発した。

 また、長女の稲は、最初の子であり、特にかわいがったが、嫁いだ夫が商売不祥事をおこし投機に手を出し破産した。忠敬は稲に、夫との離縁をすすめたが反発したので、一度父子の縁を断った。その夫がまもなく病死すると、稲は剃髪して、尼として寺に入った。

 後に江戸にでてから、栄(エイ)という女性を妻に持った。この栄は、漢文、算術も得意な才女で、この妻を得たことで測量もはかどり、やっと幸福を取り戻した。

子供に恵まれない分、弟子には教育熱心、そして自分のような者にもどんどん測量を教えてくれているようで、2ヶ月程林蔵は熱心に学んだ。

 また、来客も多く、松前でかなり世話になった高橋重賢も江戸に出張があった際、忠敬のところをよく訪ね、林蔵にも樺太や韃靼のことを訊き、それに答えることが多かった。林蔵も、答えることに慣れてきて、蝦夷地や樺太などをほとんど知らない客人に対しても、だんだん彼らにわかりやすく話すことができるようになってきた。
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プロフィール

作者:福田純也
福田純也
性別:男性
男性

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