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 林蔵、奥の道未知!をいく

 江戸時代の探検家、間宮林蔵を題材とした小説です。

その二

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その二

林蔵(りんぞう)、正確には、間宮林蔵(まみやりんぞう)が生まれた1780年頃、蝦夷地よりもはるかに北にロシアという国があり、先祖代替住み続けているアイヌ人と違って、実は、長崎で唯一貿易している西洋の国オランダと同じ欧州の国ながら、シベリア大陸を東に東と領土を拡張し、すでに日本近海にまで迫っている、と言った情報が、幕臣や蘭学者たちの間でも知られだしていた。そのせいで、幕府も半ば慌てたように、蝦夷地や周辺の千島や樺太のことを調査しようと動くようになった頃である。

 択捉島までの道は、幕府の役人でエリートというべき近藤重蔵を筆頭に、すでに何回も蝦夷地に派遣されていてアイヌ語を独習していた下役人の最上徳内や案内役のアイヌ人達を派遣し、ここに、大日本択捉という看板を建て、ここまでは日本の領土であるという宣言とも言える行為をしたのが、寛政10年(1798年)である。
 
 その頃、林蔵は、故郷の小貝川近くの村を離れ、すでに幕府役人村上島之允という役人の従者として彼の測量や地図の作成を手伝っていた。測量のため、各地を速く歩くためか、脚力もかなり鍛えられていた頃だった。
 
 林蔵はもとは百姓の一人息子である。すぐ近くに、関東平野を流れる利根川の支流の小貝川が流れていて、夏は水浴びをして遊んでいた。
 実家は比較的裕福であったし、更に、一人息子ということもあり寺子屋に小さいころから通うと、なかなか知発だったことから、複雑な算術を習ったり、読み書きも平仮名だけでなく漢字もどんどん学びだした。武士ではなかったが、寺子屋の浪人の先生の指導で、漢詩もいくつか暗唱したり、漢文の素読もだいぶやっていた。
 
 そんな時に小貝川の堰とめ、堰切り工事にやってきたのが、普請役人の村上島之允である。元は伊勢(三重県)の神官の子ながら、算術等の学問好きなことから江戸で学び、ついに普請役人になった人であった。

 小貝川の水が普段春には堰を止め、土用明けの10日目に堰を開くと水が水田に放たれていく。林蔵は自然の力を人間がうまく利用することで豊かになっていくことに興味を持ち、大人たちに交じって積極的に工事に手伝うようになった。幸い大人たちに可愛がられ、いろいろな話をきいた。例えば、将軍のいる江戸という街も、もとは荒れた田舎だった所だったが、各地を埋め立て、更に、参勤交代で全国各地から武士が集まることで人口が100万程にまで膨れ上がったため、川の水を各地にひき、神田上水、玉川上水といった用水も作り、水不足に対策した話や、また、箱根の関所近くで、水不足で米の飯もまともに食えなかった農民のため、近くの芦ノ湖の水を引いた箱根用水の大工事の話などを熱心に聴きだし、ワクワクしていった。ついに村上の方も、林蔵を気に入って、また林蔵も外の世界に出てみたいと思っていたところだったことから、ついには彼の両親を説得して下僕として連れていくことになった。

 それから6年、村上の下僕として測量を習った。得意の算術の知識も役立ったようで、あと、習いもしないのに意外と絵を描くのも得意であったこともあり、測地の術を必死で勉強し、かなりの測地術ができるようになっていた。
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プロフィール

作者:福田純也
福田純也
性別:男性
男性

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