第一章 択捉島(現、北方領土)
ダーン!ダーン!ダァ―ンー。ドガァーン!!!、ドコーン!!
今から、200年前、まだ江戸時代、文化四年(1807)の春のこと。
海岸で大きな砲の音が鳴っていた。林蔵は、他の日本の武士や現地のアイヌ人と共に、裏山の森から身をかがめて、じっとしながら実は震えていた。ロシアの砲撃の音も、江戸の花火よりはるかに小さい音と、冗談でも言って気を紛らわしたくなったが、異常に緊迫していたし、彼自身も、恐怖で口をつぐんだ。
(旧暦4月だから、現代の5月下旬だし、空は雲一つない快晴で日差しも照っていたから、もう寒くはないはずなのに)震えもひどい。更にあるものは、いきなりの戦さという事実。太平の世の中で、自分たちはロシア人というはるか北からやってきた大きな白人と戦さになっていた。
ちょっと前までは「ロシアめ、来るなら来い!」と思っていたけれど、あまりにも大きな砲の音に、内心びびりまくっていた。「俺、なんで所に来たがったのだろう!」林蔵は心の中で思った。決して口に出してはならない言葉であるが。
なぜなら、彼は農民出身ながら、まじめに働いたことを認められ、幕府の下役人となって南千島・択捉島の測量と新道設置のために択捉島の漁場(会所)で、シャナというに所に来ているのだから。
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択捉島は、蝦夷地東部(今の北海道)の知床半島より先の千島列島の中で、すぐ隣にある国後島の先にある大きな島である。今(2015年)、第二次世界大戦末期に日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍により武力占領され、現在はロシア連邦の実行支配下にあるが、日本政府が領有権を主張する領域内で最北端の地である。
古来から室町時代の後期までは、蝦夷地以北の地域は、それまでも米もとれない寒冷地で、いわば無関心に近かった存在だが、意外にも鮭、昆布など魚介類が豊富で、アイヌ人との(物々交換による)貿易で、函館の港もにぎわっていたし、また、蝦夷で砂金が見つかったこともあって、その採掘のため、少しずつ和人(日本人)が蝦夷に渡っていた。
林蔵たちが択捉に渡るより更に200年前、徳川家康が江戸に幕府を開いた頃、蝦夷地唯一の藩、松前藩によるアイヌとの貿易はすでに進んでいたが、徳川初期に、アイヌ側が鮭100匹に対し松前藩からは日本内地からの米二俵と交換していたが、50年後に同量の鮭に対し、米が一俵にみたなくなり、アイヌの怒りを引き起こしていた。
当時、松前藩が、アイヌ人から鮭などの北方の魚介類の入手のため、代わりに彼らには、内地から西廻り及び東廻り航路で届いた米、酒、うるしの漆器(英語でも漆器のことを、JAPANというくらいだから、当時から日本の特産物である)、さらに醤油、煙草などを盛んに売っていて、アイヌ人の生活上に取ってもすでに欠かせない必需品となり、そのことを松前藩が知ったことで、余計不平等なレートで物々交換が強制された。そしてついに起きたのが、1670年ごろのシャクシャインの乱である。徳川はすでに4代目の家重の時代である。いつもなら村ごと分かれているアイヌが、シャクシャインというリーダーの力で統括され、その結果、和人300人が殺され、松前藩が江戸の徳川御公儀に、援軍を申し入れる事態となった。ただアイヌ側でも、戦いに疲れ和人とこっそり講和しようとする村も増え、ついには、シャクシャイン自身も松前藩から講和を持ちかけられて、和睦の酒宴の席でだまされて殺されてしまうと、乱は急速に静まった。
この事件で、松前藩も一旦はアイヌに課していた重い労役を減らすなど、少しずつ改善していたが、18世紀にはいると、また不平等な物々交換を強いては、内乱が時々起きるということが続いた。