林蔵たちは、そんなロシアのことは何も知らなかったが、上陸してきたからには何らかの対処をせねばならなかった。すると、次は「ここから少し離れたナイボの漁場はロシア人によって占領されたようです」という伝達が、シャナの会所にもはいってきた。
いまや、ここシャナの会所はまだだが、昨年に樺太の移留地もロシアに襲われて、食料(米、貯蔵庫の魚など)を大量に奪われたというし気をつけねばならないと戸田は答えながら、すでに顔は青ざめていた。恐怖であろう!、彼に限らずシャナにいた日本人は誰もが、噂では六尺(180cm)程の大きな異人をまだ見たこともなく、勿論戦さなど全く体験していなかったし、かといって、ロシアは日本が何もしなければ択捉島を占領してくるやもしれない。しかし、戦ってこんな辺境の地で死ぬことになったら、どうしようか。戸田に限らず、ほぼ全員がそんな不安をもっていたのであった。
そんな中、林蔵は一人、ロシアめ、早く来いと全く逆のことを考えていた。彼は一人必死に幕命に燃えていたが、ヤル気のない上司たちにいつも怒りを覚えていた。
それでいて身分をカサに普段は威張り散らす馬鹿共、そして、測量をしている自分に対しては、百姓出身のくせに生意気な成り上がり者が!、という嫉妬のような視線も感じていた林蔵は、彼らのうろたえぶりを見て内心苦笑していた。
ナイボがやられたらどうするか。いよいよシャナにもやってくるかもしれないな、と思っていた。戸田と、戸田の磯巾着の副長の関谷の野郎、どうすんのかな。でも俺もここでまだ死にたくはないな、でも俺は、幸か不幸か、今となっては幸いなのだろう。もともと武士ではなかったから剣術はやっていないし、ここにも測量勤務で来ていて、他のほとんどの奴らと違って、警備で来ているわけではないから、恐らく俺はすぐにロシア人と戦わなくていい。まずあいつらの戦いぶりを後ろから見てみればいいわけで、それから俺の出番だ。
俺だったら、わざとシャナの奥の森の中に一度皆を隠して、俺自身はアイヌ人に混ざり巧くロシヤ人の中に忍び込んでやる。アイヌ人は隣のウルップ島にもいるし、ロシアも原住民のアイヌ人なら敵とは思わないだろう。それに、アイヌも俺たち和人もだいたい5尺2寸から3寸くらい(157~161cm)で、あまり背格好は変わらないし、俺は他のやつらと違ってアイヌ語もできるし、頭の月代はこっちに来てからそっていないから、アイヌ人に服を借りて着ていれば、すぐにごまかせるだろう。それでうまく夜になってロシア人が油断して眠ったところを襲えばいいのだ。
林蔵が一人そんなことをひそかに想像していたら、ついにシャナの沖にもロシア船がやってきてしまった。
「いよいよ来たな。戸田の野郎どうするのかな」
上司たちがずっと協議と称して、ずっと小屋の内にいて、難しい顔を浮かべて何も決められないでいるのを内心さげすんだ気持ちで思いながら、本当にシャナの漁場まで来られては、もう道路を開設するなんて言っていられないし、俺もどうなるのかなと、と、不安が少しずつ彼自身の脳裏によぎってきた。